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男三人兄弟両親W介護回顧録⑧ ~今日、ママンとパパの病気の経過を回顧した ~

パパがいない初めての大晦日が明け、そしてパパがいない初めてのお正月を迎えた。

いつもなら特番のバラエティなんかを流しながら、パパ、ママン、ボク、オトウトでお雑煮やおせちを取り囲むのが恒例だったが、今年のお正月はそれまでのものと全く違った。

パパがいなければ、お雑煮もおせちもない。

パパとママンが嬉しそうに年賀状1枚1枚をめくる光景もない。

なんとも寂しいお正月。

なんだか家の中もほの暗い。

1月1日、ボクはツマと一緒に実家へ出向き、神棚と仏壇に手を合わせ、その後、ママンと少し話をした。

このころには、ママンも足がむくんできて歩きづらいと言っていたようにも思う。

ただ、パパもママンも「病気は医者が作るもの」という考えていたこと、病院自体が嫌いであったこと、そして、ママンもパパの病気も看なければばならないと思っていたこともあって、大学病院で検査をしてもらうことまでは、ボクたちも気が回っていなかった。

いや、実際にはママンは近所のクリニックへは通っていたので、きっとよくなると思っていたのかもしれない。

いや、ボクたちは「パパはママンが介護するもの」と思い、ママンの病気のことから目をそらしていたのかもしれない。

いや、これまで家族の問題はすべて解決してくれていたので、「今回もママンがいれば大丈夫」と安心しきってしまっていたのかもしれない。

きっとこれらすべてだったのだろう。

ママンは昨年の11月の血液検査で肝臓の数値が芳しくなく、難病の「原発性胆汁性胆管炎」と診断されていた。

ただ、その病気の治療はウルソという錠剤を飲み続けることしかないらしかった。

当然、ママンもそれを欠かさずに服用していた。

そして、1月にむくみが出はじめてきたころには利尿薬も処方されていた。

とにかく、ママンはクリニックへの通院と薬の服用を続けながら、パパの病院に荷物を週1回届け、月1回の面会に通うことになる。


1月初旬、パパは電話を家にかけられるようになるまで回復した。

そのころには、すでにある程度の会話の受け答えはできるようになる。

しかし、電話をかけられるようになったところまではよかったのだが、「もう回復したから、とにかく早く退院させてくれ」としょっちゅうママンに電話をかけては困らせていた。

医者からは「ベッドの上に立ってしまったり、おむつを破ってしまったりと、夜中のせん妄が激しい」と聞いていたため、ママンやボクたちは、パパの言うことをいまいち信用できず、とにかく退院後の介護に強い不安を覚えていた。

介護するにも家の中は物で溢れかえっている。

そのうえ、退院後の福祉用具の購入やレンタル、住宅改修の検討など、とにかく問題は山積み。

しかし、ボクたちは、これまでもそうだったように、パパの病気のことも介護のことも片づけのことさえも、「ママンがどうにかしてくれるはず」と頼りきってしまっていた。

ママンの病気が刻一刻と悪化していることも知らずに…







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