見出し画像

地味だが確実に血肉となった部活動を振り返る(前編) 中学時代「美術部」

こんにちは、ユキッ先生です。

2兆円か9000万円を求めて日々生きていますが、もし2兆円手に入ったら、温泉を掘って温泉施設をオープンしたいです。


さきほど大好きなラジウム温泉とサウナでととのい、地ビールで腹が潤いました。きょうは最寄りのおふろcafeから、館内着で寝っ転がってお届けします。まじサーセン。電源もあるし、控えめにいって最高。

さて、国内での五輪開催が目前に迫り、日本においても文明開花以来の150年ぐらいは運動部文化が牛耳る、私のようなタイプにとって肩身の狭い時代であったことを認めつつ、本日は表題のテーマでお届けします。

小学生の頃は運動部でした

4年生からの1年間は体操部に、5年生からの2年間はミニバスケ部に所属していました。

体操部に入部したのはおそらく当時流行っていた新体操漫画『光の伝説』(なついぜ)の影響なんじゃないかな。あと田舎なので部活動の選択肢が圧倒的に少ないなかで、親戚のお兄ちゃんが県大会に出場するレベルでわりと上手だったから、私にもワンチャンある? と期待してみたとか、そういうレベルの浅はかな気軽さ。

でもまあ残念ながら才能はなかったですね。身体が大きめ&体重が多めというのもあると思うけど。結果としては1年で辞めちゃいました。しかしあの年頃で、1年で自分の適性を見抜けたのは偉かったと思う。

その後、確か小学校で創設間もなかった女子ミニバスケ部に入ったのですが、これは面白く取り組めました。わかりやすいセンスや瞬発力はないタイプで、レギュラーではなかったですけども、なんというか、ゾーン編成とかでのチームプレイだと、重量感のあるメンバーも一人ぐらい必要じゃないですか。
クラスでも後ろから2番目ぐらいに背は高かったので、ジャンプボールのジャンパー、あるいはリバウンド(相手チームがゴールを外したボールをぶん取る)要員として、活躍の場を見出しました。
個人的に好きだったのは、相手チームとボールを取り合う形になったとき。重量感が持ち味のユキッ選手ですから、とにかく足腰据えて、安定感で全力でぶん取ります。チームのなかでも随一の格闘系でしたね。

なので、その後も球技をプレイするときには「相手チームとの間にネットのある球技しゃらくせえ。球はぶつかって取り合ってなんぼじゃ」と考えるタイプになってしまいました。根が格闘家。
ちなみに大学時代の体育の授業では「日本拳法」を選択しました。その頃にはすっかり文化部系に仕上がってて、3回生まで履修を後回しにした挙句、授業で何したか全然覚えてないな…。

美術部をなぜ選んだか

そんな私ですが、中学校に上がって選んだのは即断で美術部でした。
そもそも小さい頃から漫画を描くのが大好きで、中学校に入ったか入らないかぐらいの頃から、友人たちと同人誌を作ってました。中二病とはよくいったもので、本当に中2まではプロ漫画家を目指して、1枚500円(泣)のスクリーントーンを買って、カッターでがりがりコツコツ削っていましたよ。

田舎の学校って本当に部活動の選択肢が少ないんですが、当時通っていた中学校での、女子の花形は吹奏楽部とバレー部でした。

ガタイがいいのでバレー部に誘われたりもしましたが、厳しい練習で有名だったので、断固として拒否。

吹奏楽部にもわずかに憧れがありましたが、幼少期のピアノの習いごとも2年でバイエル1冊しか進まなかったので挫折し、小学校の頃の鼓笛隊審査にすら耳コピ小太鼓のリズム感テストで落ちた経験があるため、「私が音楽を好きでも、音楽は私を好きじゃない」という感覚があり、選択肢に入りませんでした。あとバレー部に負けず劣らず厳しい練習で有名だったので。

その後、中学時代の同級生と会って話すと、やはり上記の厳しい部活OBたちの結束は強いなと感じています。でもまあ、別にそれは私が求めていた青春ではなかった。

出身中学校美術部のおもな活動内容

そもそも顧問の美術教師がほとんど顔を出さなかった記憶がありますね(でもそれって文化部として最&高の環境。ちなみに高校時代の文芸部もそんな感じだった)。
そして、活動内容としては、いわゆる絵の技術を磨いたり、多様な表現方法を学ぶというよりは、これに終始してました。

「コンクール向けにポスターを描いて出品する」

交通安全啓発とか、電波障害防止とか、税金は適切に使われてるよとか、学生の絵がよく使われてるアレです。

なので日々の使用画材はほぼポスターカラーだけだっただし、何なら絵を描くとことしかしていない。ほら、美術ってさあ、油絵とか木炭とかデッサンとか、彫刻とか版画とか鑑賞なんかもっとほかにいろいろあるだろ。
のちに、「美術部」を描いたアニメや映画を観ていると、どうやらもっといろんなことしているので、あれは「ポスター部」だったんじゃないだろうかと思います。

でもまあ、写実的な絵とはまた違う、いわゆるデザイン的な観点の基礎はそこで鍛えられたのかもしれないし、絵を描くのと同じぐらいめっちゃレタリングしてたので、いまでもフォントを見るのも選ぶのも配置するのも楽しいし、何よりコンクールで入賞したら賞品はそのままもらえるので、おいしい部活でした。

ゆるゆる美術部仲間とのその後の意外なつながり

厳しい他の部活動を避けて選んできた賢いメンバーたちなので(笑)、毎日のんびりしたムードでした。久々に会っても、特に何の結束感もないです。健康ならそれでええやないか。

昨今「ゆるいつながり」というのがけっこう重要視されますけど、それってまさに文化部のつながりかただなと思います。漫画でもアニメでも映画でも何でもいいんだけど、文化的な興味の重なりに魅力を感じて自発的に集まる人たちのコミュニティは強いですよ。

ちょっと本題から反れましたが、ゆるゆる美術部員のなかでも一部のメンバーとはいまでも想定外のつながりがあって、少なくとも2人は、たまたま大阪の市内に住んでいて、わが家と最大5歳ぐらいしか違わない子育てをしているんですよね。しかもパパママとしては私の先輩。
同級生で美術部員は総勢15人ぐらいだったはずなのに、3人が中央区と西区に居て、育児中という奇跡。幸いにも数年に一度は集まる機会があり、情報交換しています。

いまでも役に立っていること

漫画家になる夢は諦めて卒業後はまた違う部に入りましたし、大学でも全然違うことやってましたし、美術部での経験が直接役に立ったな、というのは30過ぎぐらいまで感じなかったのですが、ここ10年ぐらいで「役立った」と思えることが増えました。

デザイナーさんや絵師さんとコミュニケーションする仕事の機会には、提出されたものに簡単に希望ポイントを描き添えてフィードバックすることがあって、そのときは美術部の経験があってよかった、と心から思いました。

あと、些細なことではありますが、保育園の連絡帳に書く内容が枯渇し始めたときに、可愛かった子どものしぐとかについてのイラストなんかをささっと入れると、要は落書きですけど、埋め草になるし、保育士さんが褒めてくれるので嬉しいですw

でもいちばん楽しいのは、やはり子どもと一緒にお絵かきをしているときでしょうね。「〇〇を描いて!」と要求してくることも多いし、そういうときは「ヨシ来た!」という感じで無理難題に挑みます。

アンパンマン? うん、余裕余裕。似てる自信ある。
プリンセス? そうだね、漫画家になりたかったぐらいだから得意。
ショベルカー? うん、あれ、あそこの接続部分のバランスどうなってるんだ…? ごめん先にちょっとググっていい?? 「ショベルカー アイコン」…。

最後には面倒臭くなって「まあ、おかあさんのは気にせずに、君たちの好きなものを思ったように描きなさい」となりますけども。

子どもが園で描いてきた作品を見ながら、「あー、この頃は‟何を”描くではなくて、自由に描画できる感触や、いろんな色を楽しむのが大切なんだな~」とか、「この頃の月齢で、人間のパーツをこういうふうに認識するんだな」というのを学習するのもまた、その一部は、もしかしたら経験者ならではの楽しみかたなのかもしれません。

特に業務上の必要性はないけど、ペンタブ欲しいなあ。

そういうわけで、後編(高校・文芸部)に続きます。

誰が興味あんねん。


写真 / たぶんこれは高校の頃に同人誌用に描いたイラスト。当時こういうの流行ってたのかな



この記事が参加している募集

#自己紹介

231,424件

#部活の思い出

5,459件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?