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【中編小説】死願者 #3

第三話 代償


 クラスに一人は遅刻魔という者がいる。このクラスの常習犯は、同時にムードメイカーでもあった。いつもは仮病という病気を駆使してきて、男はかさねがさねそれに対し、病気は言い訳のためにあるのではない、とたしなめていた。この日もあきれながらも遅刻の理由を問い質した。

「こまってる人を助けてたら遅れました」

 一同はおおいに笑った。

「……それを証明するものはあるかな」

「せんせい、何言ってんだ。おれの目を見てくれよ、これがなによりの証拠だ」

「たしかにいい目だ。目は口ほどにものをいうからな。でも一応口でも説明してくれ、総合的に判断するから」

「ほんとうなんだってば。ほんと、まいっちゃうよ……それがさ、まず電車だ。車内で七十くらいの老人が突っ立ってたからさ、おれは席を譲ってやったわけよ、そしたらそいつ、年寄りに思われたことが気に食わないらしくてな、五分ほど説教くらってよ」

「それでも五分のロスだろう」

「たく、親切心を評価してくれよ……まあいいや。で、次は横断歩道だ……今度は婆さん。小汚いでっかな風呂敷抱えててさ、歩道を渡るのに時間かかってたから荷物持ってやったんだ。そりゃもう、婆さんよろこんでよろこんで、何度も礼を言ってたよ。んで、歩道渡りきったあと、学校行くからって言ったら、とつぜん表情が一転してさ。家まで運んでくれるんじゃなかったの! ってちっさい身体から大音量でさ……家まですぐ近くだったらしいから、しかたなく送ってやったんだ。でも家に着いたら着いたで二階の部屋まで運んでおくれってさ。もう我慢ならなくて荷物をむりやり押し付けたんだ。そしたら、荷物が地面に落ちて、中身がいっちゃってね……それが高価な陶器だなんて言いだすんだ。そんで七万も請求されちゃってよ、信じらんねえ、ばかげてるぜ。それも、うすぎたねえ茶器なんだぜ。こっちは親と連絡つけて、なんとか落着。ほんと、老人介護とかできる奴ってすげえよな、尊敬できるわ、わりに合わねえっつうの。いや、でも介護はもはや労働ってやつか……でもそう考えちまうと、今親の世話んなってるおれも労働者みたいなもんか、はあ、やだな……あ、そうだ、親に連絡してもらえれば、すぐ分かるぜ」

 さっきよりおおきな笑いがおきた。

「……いや、お前を信じるよ。席に着け」

 気も漫ろで一日を過ごした。教えることより教わることのほうが多い、と書かれていた教師マニュアルなる本はやはり手放せないだろう。



 その晩、かねてからの約束どおり後輩を体育教師つきで飲みにつれていった。

 奇天烈な居酒屋だった。三階までつきぬけで広々とした、ほぼ正方形の店内だった。店の中央にも正方形の厨房兼カウンターがある。その正方形の中に店員がいて、四方八方からまる見えだった。つきぬけなのだが、一応二階、三階というのがあるようで、店の隅に梯子が一脚敷設されていた。ただし二階も三階も壁沿いの通路しかない。その一人分くらいしか通れなさそうな細い通路の柵に寄りかかったり、手すりに両肘をつけて酒を呑んでいる者もいた。下からまる見えでいやに目立つ。天井にぶらさがっている、真心と書かれた大きな提灯が店内を橙色に染めていて、巨大な白熱電球の中に収容されているような感じがした。その収容所のフィラメントの部分が、あの提灯だ。

 男たちは入り口すぐの角のテーブルに案内された。

 お客様第一と書かれたコースターに麦酒が置かれた。それと、くじらの塩漬けベーコンの丼ぶり、まさにくじらの舌みたいだ。

「へんてこな構造だね」体育が店員に話しかけた。

「そうですか? 空間を最大限に活かした設計らしいですよ。天井が高いのも、天井の高さが酔いのまわりに影響するだとかで、空間心理学にもとづいてつくられているらしいんですね。ほら、あの厨房から地下におりられるんですよ。オーナーが空襲体験者らしくて、あそこ防空壕を改造したらしいんですけど、事務室や休憩室になっているんです。地下からべつの出口に通じていて、そのまま従業員は出入りできるようになっているんですね。すべてはお客様のことを考えてのこと、というわけです」

 真剣にはなしを聞いていた男をよそに、後輩は麦酒に口をつけていた。話しかけた張本人の体育のほうはというと、もう呑みほしていた。グラスを隠しても無駄だ、その泡のついたくちもとがなによりの証拠である。男も麦酒を呑む。奢られる酒より奢る酒のほうが旨い。一気に呑みほし、鯨の舌を舌の上にのっけて、すこしずつ咀嚼していった。

 酔いがまわり、はなしは弾んだ。

「強姦は初耳だな」後輩がつぶやいた。

「強姦は?」

「妊娠は周知だぞ」体育は答える。「そのはなし、噂になってるよ。君の受け持ちだろう」

 となると、あの女子生徒、噂になっていることを自覚して言ってきたのだろうか。さきに質されるまえに先手をうって食い止めようと考えたのだろうか。それならば、最大限に親密を装うことのできる、「秘密の打ち明け」を逆手にとった大胆な道化である。

「十五で妊娠だなんて、不埒だと思いますかね。いや愚問ですね、しかし一応」

「思わんね。理由はどうあれ、生命の誕生はいいもんだぜ」体育は目下の問題に目をそむけた。

「保守的な考えはないのかね。なんて教師とは迂遠な奴なんだ!」

「経済面はもとより、ただ体面を気にしてのことだろう。何故、子供を羞恥の的にさせようとするんかね。もともと子供なんて、羞恥的儀式から誕生するもんなのに。しかし、その恥の結晶を誇りたいと思うのもばかげてるけどね」

 議論はだんだん白熱していった。しかし、こうして議論をしてもしょうがない。

「性教育の必然性が増してしまったな。さてどうすればいいものか」

「彼女、おちょくってるだけかもしれませんよ。まだ様子見というところでいいんじゃないのかな」

「手遅れになったらどうするのさ」

「手遅れとは、誕生を指すのかい。堕胎できなくなるのが手遅れなのかい」

「なんにせよ、決断には時間が必要なんだ、おたがいに」

「確証も必要だな。いたずらの可能性もなくはない。さあ、どうでるか。問い詰めるかい」

 呑むピッチは自然とあがっていく。見たかったアクション映画が放送される時間だった。録画してはいたが、はやく帰っていますぐ見たくなった。待つさ。向こうから言ってくるのを待つさ。それでいいだろう。面倒事はよしてくださいよ。もう夭折を拝むのは御免だからね。教育論にまではなしは発展していく。勉強ができるとはルーチンに堪え、家畜になれるということですからなあ。にべもないこと言うなよ、意味は彼らが自分自身の手で見付けるさ。いいこと言うねえ、奴さん。でさ、あの排球部の女子生徒のことだけど。はあ? あの女生徒、女子サッカー部だろう?……え……生徒と同じ目線に立つことこそ、教育に不可欠なんですよ。同じ目線。同じ目線、ねえ。……尿意を催した。

 便所は三階にあるらしく、二階まで梯子でのぼってみると、三階につづく梯子は店の入り口のほう、つまり正反対の位置にあった。壁に沿って正方形のふちを歩き、通路で立ち呑みしている者たちのうしろを遠慮がちに通り抜け、三階への梯子のまえに立つ。便所まで我慢できなかったのだろう、梯子には吐瀉が塗りたくられていた。気を付けながらのぼって三階から下をのぞくと、ちょうど自分たちのテーブルがある。体育の薄い頭部がばっちし見える。後輩と体育はまだ話し合っていた。でっかい提灯が目の前にきている。真心という字は墨で書かれていて、異様に大きい。便所のとびらはまたも正反対のほう、つまり二階につづく梯子の真上だった。三階ともなると、床の吐瀉の数は多い。提灯のまわりをぐるぐると正方形にまわり、ようやく便所のとびらを開けると、そこに便所はなく外に通じていた。となりの建物に連絡する短い通路になっているようだ。便所に向かうためだけの連絡通路らしく、となりの建物の側面にとってつけたようなかたちで便所があった。店内とはうってかわって、風がおしげもなく吹きつける。アルミ缶が坂をころがるような音をたてながら外にせりでたトタン板の通路を渡ると、二人が便所に入るのを待っていて、男も仕方なく通路のまん中に並ぶことになった。

 空中に放りだされ仮設されたような橋の通路のまんなかで、柵に寄りかかった。今にもくずれ落ちそうで、三人分の重さだったらもたないだろう。くずれても別段いいような気がした。弟が自殺した年から毎年遺書をしたためるようになっていたし、いつ死んでも悔いはないだろう。外気は冷えるが、バグパイプのような無数の煙突から熱気が噴き出し、わずかに身体を温められる。とつぜん雨が降りだした。壊れた雨樋から水がこぼれだしていた。雨は通路を濡らし、頬を濡らし、どうしてか女のことを思い出した。私だけ助かってごめんなさい。男のずっと向こうにいる、男の知らない誰かに対してそんな言葉をつぶやいていた。感謝ではない謝意の姿を見るくらいなら、糾弾されたほうがましだ。

 あの女は涙を見せようとはしなかった。そんな様子がまた、殊勝にも思える。女のことが気になって電話をかけてみたが、留守番電話につながってしまった。自殺を思いとどめさせるための言葉も今なら言えるような気がしたけれど、その好機を逃してしまったのかもしれない。女がひとりきりでいるのだと思うと、どうしようもなく申し訳ないきもちがおしよせてきてしまう……おれは、誰に、何に対して、謝ればいい?……しかし、か弱い女を支えてやるのもわるくないかもしれない。しかたない、よくもわるくも回帰される数が多いほど、その回帰する者に興味を抱いていることを誤魔化せなくなるのだ。いくら自分が否定してやっても、もはや脳のほうは誤認してしまっている。

 便所が空き、とびらのまえに立つと、とびらには『思いやり、汚いところはお見せしません』と書かれた紙が貼られているのに気づいた。便所のある建物に向かう途中、濡れた床で足を滑らしそうだったし、便所から出てきた者とすれちがうとき、足場は、ほんとうに、くずれてしまいそうだった。



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