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私の正義と本来美

松原靖樹氏主宰の4ポジクラブに加入している。本当の本当の本当のところの自分とは何かを知り、個性を知り、強みを知り、それでも分からない無限の可能性の自分がいる、ということを知る。そしてそれを適切に扱う「セルフインテリジェンス」というものを学んでいる。
その中に、一次構造心理という分野があり、そこで言われる「本来美」と「正義」というテーマに関しての自分に対する考察をまとめたい。


結論

長くなるので結論から述べる。強烈な個性の探求なので過激な表現をあえてしてみる。
現時点で考えた私の正義と本来美は

【正義】
1.自分の考えは正しく、それにより周りが支配されていることは正しい(影響を与えていることは正しい)
2.生き抜くことは正しい

【本来美】
貴公子然とした純粋さや柔和さ

と考えた。

正義=これこそが正しいというもの

正義という言葉は一般的に良く知られている概念だ。だがその言葉の意味や、自分における正義とは何か?というところまで考えを巡らせる人は少ないのではないだろうか。

松原氏の動画で「正しいことを行うとは何か?」という動画がある。そこでは十二大戦という作品を例に出しているけれども

①何が正しいかを決める
②その決められた正しいを実践する
③その結果正しさが形になる

という話をしている。

ここで注目したいのは、正しさは自分で決めるものであるということ。
自分にとって何が正しいのかが重要なのだ。

それでは私にとっての正義とは、「これが正しい」というものは何かを考えてみたい

正義2:生き抜くことは正しい

考えるヒントとして、自分にとって「これが正しい」と思うことを考えると同時に「これは正しくない」と逆説的にも考える。

ちなみに、これから綴るのは私の主観的意見しかない。その上での正義の話なので、こういう考えもあるのだなと温かい目でみてもらえると嬉しい。

自分にとって許せる自殺と許せない自殺

考えやすかったので、「自分にとって正しくないこと」を考えてみた。すぐ
に思いついたのは自殺であった。そこから考えてみたい。

※少しセンシティブで偏った考えが出てくるので、読む時は注意されたい。

自殺にも種類があるのではないかと思う。例えば、三島由紀夫の自殺は、自殺という行為に意味を持たせて社会に対して訴えかける手段としての、能動的な自害であった。
一方、昨今の芸能人の自殺や社会問題となっている自殺は、(故人の真意は分からない前提で勝手に考えると)そこにメッセージは込められておらず、辛い世の中や現状を回避するための自殺、受動的な自殺という表現をしてみる。

辛いことを解消したい自殺は、もう生きていけない、全てを捨て去ってもいいから解放されたいくらい辛いのであれば、そこから解放されるために自殺を選ぶのは生き物として真っ当だと思う。生き抜こうとした結果、環境に押し潰されて逆方向に生き抜く形になってしまったと捉える。

一方、自殺にポジティブな意味を込めて、社会改革やツールとしての自死を実行することは許せない。つまり、許せる自殺と許せない自殺が生まれた。その違いは「一動物として必死に生き抜こうとしているか」だと考える。

後者の受動的な自殺は「一動物として必死に生き抜こうとしている」と捉えられる。しかし環境や外部の要因によって、生き抜こうとすると自殺へ向かってしまったのではないかと考える。
前者の能動的な自殺は「一動物として必死に生き抜こうとしている」ことに反すると考える。

ここで注目していただきたいのは、「正しい自殺とは何か?」という哲学的な議論ではなく、私が「一動物として必死に生き抜くこと」が正しいと考えているところである。

人間は動物であり、動物として必死に生き抜くことが正しい

前提として、人間も地球に生きる生き物の1つだと考えている。
ライオンやシマウマ、犬、猫など、立場の違いはあれど同じ動物であり、それぞれの生態がある。
野生動物は、諸々の結果死ぬことはあっても、自ら積極的に意図して死ぬことはない。なので、積極的に意図して死ぬことは許されることではない。

飼育下の動物が自傷行為に走るなどは、外部要因が原因で起こる現象なので、前述の受動的な自殺同様その人のせいではない。そういう状況に置かれた人は、一刻も早くその環境から逃げ出してほしい。逃げるのは生存戦略だ。

生活全般が得意である自分に説明がつく

これまでの自己探究から「生活全般に関わること」というのがキーワードになっていた。生活は生き抜くことと関係性がある。生活全般に関わることは一通りできるのだが、なぜそれがそんなにもできるかというと「生き抜くこと」に必要だからである。それがないと死んでしまう。ということはある種死ぬことを回避するために生活全般の能力を高める方向に向かってしまう。


これまでの自分の人生を振り返っても、生き抜くことは正しいという正義に照らし合わせると色々なことに説明がつく。
そして、この正義2は1というもっと根源的な正義がある。次はそこについて考えてみたい。

正義1:自分の正しい考えで周りが支配されていることは正しい

上記のことを考えながら思い出したことは、自分の中に「支配欲」があるということだ。支配という言葉は一見良くないことのように感じられるかもしれないが、影響力の根底には支配性があるというのが松原氏の理論で、その説明には納得感しかなかった。
「支配欲」から正義を考えてみたい。

自分は正しい

かなりシンプルだが、私は自分が正しいと考えている。そしてそれがまかり通ると考えている。もちろん現実社会において通らないこともあるが、基本的に通るべきだと考えている。

城下町に降りてきた次期当主「若旦那」

イメージは領地の当主の長子だ。領民や城下町を歩くと、当主の子息というだけで無条件で受け入れられる。そして自分はそれが当然だと思っている。しかし領主としての責務を果たすことでそれが成り立っているということも知っているので、向いていることも向いていないこともできるようになろうとする。ノブレスオブリージュである。

以前、「貴族っぽい」と言われたことがあるが、改めてそのことが腑に落ちる感じがした。

(正義2の話と比べて急に頭悪くなった感じするけど、気にせず続けてみよう。)

自分の考えが通らないと「怒る」

基本、自分の考えこそが正しく、それによって支配されることでより良くなっていくと思っているので、自分のその考えが通らないと「怒る」。ノブレスオブリージュが発揮できないと指摘されれば、納得して考えを改め、新しい「自分の考え」を結論づける。しかし、これこそが必要だと確信があることを否定されたり、違うと言われると「怒る」

昔、モナコの舞踏会に出る機会があった。これからの社会に出る上で必要なことだとその時は思っていて、内定を蹴って1週間のフランス旅行に行った。その時、祖母が自分を否定した時は怒ったし、今だに憎んでいる。


そんな正しさ、正義から、自分の本来美について考えることができると思った。今度は、本来美について綴っていく。

本来美=自身に備わっているガツン!とくる美しさ

本来美は自分に備わっているものである。例えば美しい絵画や建造物を見たときにそれを美しいと感じるのは「審美眼」であり、見ている側の本来美ではない。言うなれば自分が美しい絵画や建造物と同じように審美眼の対象だと考えたときに、どんな美しさが審美眼に適うのか=本来美となる。

本来美:貴公子然とした純粋さと柔和さ

本来美については身近な人に聞くという方法があると知り、早速妻に尋ねてみた。すると返ってきた答えは下記のようなものであった。

純粋さ・明るさ・無邪気さ・子供っぽさ・ピュアな感じ・心が綺麗・お金に興味がないところ

これについて、もっと深掘りするようにと一次構造心理の講座で言われた。

・何故純粋なのか、
・どこから純粋さがもたらされたのか
・純粋の種類は何か
・何段階あるのか

などである。
ここで、「自分の正しい考えで周りが支配されていることは正しい」に戻る。
次期当主ということは品格がある。→プリンスといってもいいかもしれない。
だが、プリンスだと恥ずかしいので貴公子然という表現にした。これはしっくりきたし、今までもそういう風に相手の目に映っていることはあったように思う。

自分がどんな影響を人に与えているか

人間は多かれ少なかれ必ず周りに影響を与えているし与えられている。
なので、自分の本来美がどんな影響を周りに与えているのかを考えるようにと言われた。
ということで早速妻に聞いたところ

「いるだけで場が和む、エネルギーが良くなる」

とのことだった。

これは純粋さやピュアな感じ、という表現からその影響を与えそうだなということは想像しやすい。
もっと言えば、柔らかい光のような=柔和さという表現がいいのではないか
ということで、自身の本来美を「貴公子然とした純粋さと柔和さ」としてみた。

総論

今回出た結論で自分について説明できることが多いので、これはこれで良いのだと思うが、自分はそれに甘んじる癖がある。若旦那なので詰めが甘いのだ…。
一旦ここまででた結論を意識しつつ、さらに奥深くに掘っていけないか考えてみたいと思った。

昨年受けたSITとも関連する部分がある。何より、今回正義と本来美を考えるにあたって、自分がやりやすい「掘っていく感覚」を少し掴めたのは大きな収穫だった。

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