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夏の終わり

「先輩、助けてください」と後輩は言った。この世の終わり、とでも言いたげな表情だった。
「と、言われても」
 単価が安めのファミレスで、ボックス席に対面で座っている。固いソファ。テーブルにはコールスローサラダとドリンクバーのグラスが二つずつ。誰が発見したのかこの組合せで頼むとドリンクバー単品よりも安くなるというお店泣かせのオーダーだ。私のグラスにはメロンソーダ、後輩のグラスには雨の日のグラウンドみたいな色の液体。何をブレンドしたのかわからないけれど、ぶくぶく泡立っているからたぶんコーラが入っている。
「頼れるのは先輩しかいないんです」
 ぐ、と言葉に詰まる。彼女はこの手の台詞を真顔で無自覚に振るう。そんなとき私は感情を悟られまいとして無駄口を叩いてしまう。
「そう言われても、私は神でも悪魔でもないから暦を変えることはできないし、総理大臣じゃないから国民の祝日を増やすこともできない。時空警察じゃないからタイムスリップもできない」
「なんですか時空警察って」
「タイムスリップできる。時空をパトロールしている」
 へえええ、と彼女はひとを小馬鹿にするような声を上げた。これが他の誰かなら憤慨しそうなものだが、私はへえええ、と言うときの彼女のふにっと動く唇を見つめて黙ってしまう。代わりにメロンソーダをひとくち啜る。

*

 二時間ほど前に呼び出しをくらった。用件も告げずファミレスに来いというから、何事かと驚いた。先に到着していた彼女は席で俯いていた。
 元気ないな、どうした、と尋ねても黙っている。相当まいっているらしい。彼女と知り合い、よく話すようになって一年とちょっと経つが、ここまでへこんでいる姿を目にしたのは初めてだった。
 何に悩んでいるのだろうか。
 進路? いつぞや「私、獣医になるんです」とにこにこしていたが、獣医学部に入るのが難しくなったとか? いやでもこの子の性格ならやると決めたらとことんやるだろう、合格ラインに届かなければ届くまで勉学に励むだろうし親に反対されても説き伏せるだろう。
 人間関係? 対人で悩んでるところを見たことないぞ。むしろその屈託のなさと天然ときどき直球な言動から周囲を悩ませるのが彼女であって。今までにない関係とか? 恋? いやそれは。え、そうなの?
「先輩」私がひとり勝手に狼狽えていると、彼女が視線をテーブルに落としたままで呼ぶ。普段の彼女からは信じられないくらい小さな声で。「助けてください」
 私のなかで想定していた事態レベルが跳ね上がる。何らかの事件に巻きこまれた? 痴漢? 暴行? ストーカー? 銀行強盗? 振りこめ詐欺? ランサムウェア? 私は彼女を苦しめるやつを許さない。吊し上げて報復してやる。
 自らの内をどす黒い復讐心で満たしながら、彼女に声をかける。
「何があった? 私でよければ力になろう」
 彼女が顔を上げる。差し伸べた救いの手を握り返すように。
「先輩……」
 
「夏休みが今日で終わりなんです!!」

 ぽーん。注文ボタンを押す。やってきた店員にコールスローサラダとドリンクバー、と伝える。かしこまりました。
「ちょっと、無視しないでくださいよ!」
「え、何が?」
「だから夏休みが」
 私はドリンクバーのグラスを取りに立ち上がる。さーて、なに飲もうかな。
「先輩いぃ!」

*

「夏休みが終わってしまうんですよ!」
 私はグラスになみなみと注いだメロンソーダをじゅるじゅる啜ってから、そうだね、と言った。
「うわ興味なさそう! 先輩が冷たい! 二十一度設定のエアコンより冷たい!」
「いやいや、冷たいっていうか。あまりにも当たり前すぎて」
「当たり前とかそんな無慈悲なこと言わないでください」
「いや、今日八月三十一日だし。夏休み最終日だし」
「ぐはあああー!」
「どうした」
「最終日とか言わないでください……発作で口から血が……」
「出てない。現実を直視しなさい」
「目の前が真っ白で何も見えません」
「燃え尽きるなよ」
「んががが、んがががが」
「今度はなんだ」
「八月三十二日を召喚する呪文です」
「ちびっこが親御さんと楽しく食事するファミリーなレストランで奇声を発したりして、恥ずかしくないの?」
「あー、もう……。あー、もう……」
「アーモウ星人?」
「なんですかアーモウ星人って」
「惑星アーモウの住人」
「どこにあるんですか」
「八三一光年先」
「遠い……気がするけどよくわからない……」
「遠路はるばる地球へやってきた」
「異星間交遊?」
「響きがやらしい」
「やらしいのは先輩の頭ですよ。目的は? ファーストコンタクト?」
「目的は夏休みを終わらせること」
「だめだ絶対に分かり合えない」
 彼女は「うー、うー」と頭を抱えて唸り、私が「ウーウー星人?」とすかさず聞くと「星人はもういいです」と心底うんざりしたような眼差しを向けられた。
「先輩が優しくない。優しくないのはダメだと思います」
「いや優しい優しくないの問題じゃなくて。可能か不可能かって言ったら、不可能だし」
 うー、うー。ウーウー星人。
「先輩が冷たい……アイスのように冷たい……ミニチョコサンデーのように冷たい……」
「食べるの?」
「いいんですか?」
「いいよ。おごらないけど」
「どうかお慈悲を……お慈悲のミニチョコサンデーを」
「世俗にまみれた慈悲だな」

*

「というか先輩」ミニチョコサンデーをスプーンでつつきながら、少し復活したらしい彼女は言う。「私に冷たいこと言いながら、実は先輩も夏休み終わるの嫌なんじゃないんですか」
「いや、別に」
 彼女は酸欠の鯉みたいに口をぱくぱくさせ、まるでウーウー星人でも見るかのような目をした。
「明日から昼まで寝れなくなるんですよ」
「私、普段から五時起きだから」
「おじいちゃんか! 好きなだけゲームやったりできなくなるんですよ」
「ゲームやらないからなあ」
「本とか、マンガとか」
「読みたいやつは一通り読んだ」
「あ、ほら」にまっと口元を緩め、少し声のトーンを落として言う。「平日に彼氏さんといちゃいちゃできなくなるんですよ」
「別れたぞ」
「えっ」
 凍りつく空気。静まり返る店内。心なしか近くを通る店員の歩みが遅く感じられた。と思ったら聞き耳立てているだけっぽかったので睨みつけておく。
 目の前の彼女の顔は「えっ」でフリーズしたままだ。少しずつ解凍し始め、虚空を見つめてうんうんと頷き始めた。
「あっあれですねひと夏の恋ってやつですね」
 声が裏返っている。扱いに困っているのがわかりやすくて面白い。
「そんなに驚くことか」
「驚きますよ!」
「付き合えば、別れることもあるだろう」
「七五調で自然の摂理みたいに言わないでください。なんで別れたんですか。Aさんかっこよかったのに」
 こういう、普通ならつっこまないところをつっこんでくるのが彼女らしい。
「Bと付き合うことになったから」
「えっ」
 再びフリーズ。ミニチョコサンデーが溶けるぞ、と思いながらメロンソーダをひとくち。だいぶ炭酸が抜けて、甘ったるかった。
「じゃ、じゃあ彼氏いるじゃないですか」
「いや、Bとも別れた。Cと付き合うことになったからな」
「えっ、えっ」
「エッエッ星人。そしてCとも別れた。一昨日だったかな」
 彼女は目を丸くして口をぽかんと開けたまま動かない。ぷしゅーとかいう擬音とともに、額から煙でも出ているのかもしれない。私が再び気の抜けたメロンソーダに口をつけたとき、絞り出すように言った。
「な、なんでですか」
「なにが?」
「最終的に別れた理由」
「うーん……毎日連絡がきて会おう会おうって言うし、少し返信遅れたら無視するなとか怒るし、過去の関係についてしつこく聞いてくるし、ちょっと面倒くさくなっちゃって」
「先輩、いつか刺されますよ」
 ミニチョコサンデーをつつく作業が再開された。アイスはスプーンの先でブスブスと刺され、傷口からカフェ色の血液がだらだらと流れた。
「っていうか何なんですか三人って。ひと夏の恋量産ですか」
「私にとっては三夏の恋だな」
「先輩、恋なんてしたことないでしょ」
 びしっと三叉スプーンを突きつけられる。そういうわけでもないんだけど。よくないと思いつつも、自分の顔が緩むのを感じる。
「話の流れで付き合うのやめなさい」
「なんか悪くて」
「その気がないのに付き合うほうが悪い!」
「付き合う気はあったんだよ? 告白されたときは」
「それはその気とは言わない……」
 ぐったりする彼女。そこでなぜぐったりするのか、私にはまったく理解できない。
「先輩、最近変わりましたね」
「ひとは絶えず変化し続けるからね」
「そういう意地悪なとこは、変わってませんけど」
 広いおでこ。眉間に皺。斜め下にそらされたままの視線。振り下ろされ続けるスプーン。つつかれるだけで口に入れてもらえずただ溶けていくミニチョコサンデーのチョコアイス部分。
 たとえば今、君が私に向けている顔、二ヶ月前くらいまでは見せたことのなかったその表情を、私のほかに見たひとはいるんだろうか。
 テーブルに肘をついて、両手の指を組んで顎を置く。色素の薄い自分の髪がテーブルの上に垂れる。以前はそうすると、髪汚れちゃいますよ、とか何とか注意してきて、正直それが鬱陶しかった。お前は私のお母さんか、と思ったし、実際に口にしたこともあったかもしれない。
 ある雨の日に部室でポテチをむさぼっていたとき、同じ言葉を囀りながら君は私の髪を結んだ。そんな些細なこと、君はもう忘れてしまったかもしれないけれど、あのときの感触を私はいまだに覚えている。
 ああ、そうか。
 君がもし、私とこうしてファミレスのボックス席でだらだらと他愛ない話をしてくれるのなら。
「んががが、んがががが」
「何ですか」
「何って、八月三十二日を召喚する呪文だろう」
「やめてくださいよ、恥ずかしい」
「君が始めたんだろ」
 すぐに溶けてしまうアイスのように、夏休みが続くのもいいかもしれない。

*

 やがて店内から客の姿がなくなる。店員がclosedと書かれた札を入り口にかけ、掃除を始める。明かりが消され、施錠される。
 薄暗がりのなかで、君と私はボックス席に座っている。君はからくり人形のように、もはや形を成していないチョコ液をスプーンでつつき続けている。満面の笑みを浮かべながら。私はそれを幸福な気分で眺めている。
 目蓋を閉じると逆さまの空が、渦を巻く灰色のぶ厚い雲が、ものすごい勢いで流れていく建物の壁と窓が見え、それはどこまでも深い海と白いシーツのかかったベッドに変わり、まとわりついて時折肌を裂く湿度を含んだ空気、大きな掌のように握りつぶす重い海水、膨張し破裂する水風船のようなからだ、撒き散らされて混ざっていく身体感覚とともに、血の気が引いてやまない寒気。
 私は私の皮膚の裏側から、変わり果てた私を見ている。拡散しながら収束するまでの刹那、夏の終わりを繰り返している。君に、声のないさよならを言い続けている。

 

***
後輩から見た先輩の話→『bed on the sea

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