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熱量について - The Energy of Creation


1.「熱量」とは


 熱量という言葉は、日常生活でも耳にすることがある。それは、物理学の熱エネルギーのことではなく、「あの作家は熱量がすごい」というような比喩表現である。物事に情熱を注いでいるさまを表したり、そこから感じられるエネルギーを「熱量」と言ったりする。この熱量、厳密な用法が決まっているわけではない。雰囲気であったり感覚的に使われるものだ。とはいえ、熱量を持つ作品には、傾向があるはず。物理的に使われる「熱」ではない、この比喩的表現の「熱量」。どのようにしたら、この熱量を放つ作品を生み出すことができるだろうか。

 写真作品の場合、撮影枚数が多ければ熱量は大きくなりそうだ。あるいは、写真一枚一枚にこだわり、クオリティが高い写真も熱を放ちそうに思う。または、必要なのは、作者のやる気、熱意だろうか。これらは、どれも当てはまる気がする。しかし、ただ枚数ばかりが多いだけで、内容がいい加減なものであれば、熱量はあまり感じないかもしれない。クオリティが高くても、数枚撮っただけで飽きてしまい中途半端なものだったら、それも見る人の心は動かしづらい。また、作者がどれだけ情熱を注いでも、成果物が何もなければ、そこから熱量は感じない。それらは総合力、すべて揃うところに熱量は発生するということなのか。

 直感的に使われる「熱量」について、それが作品にどのような影響を与えるのか、また、どのように熱量は生まれるのか。掘り下げて考えてみよう。

文章をご覧になる前に
 この記事の内容は、個人的な経験や考えに基づいています。また、そのアプローチを創作活動に対して一般化するつもりもありません。一人の作家の、固有のアプローチを分析したものとして解釈していただけたら幸いです。

2.写真作品における熱量


 まず、写真の枚数とクオリティの部分に着目して、「熱量=仕事量」と仮定してみる。質と量が充実していれば、熱量が高くなるという考え方である(写真作品において「質の高さ」というものを、一言で語るのは難しい。構図や撮影のタイミング、光の使い方が上手いという技術的な質の高さもあるし、ドキュメンタリーとして社会的な意義の有無、展示や写真集の構成の妙など、質の高さは様々な方向性がある。質の高い写真とはなにかという議論は本筋とはあまり関係がないので、それが「良い写真」と感じる、くらいの認識にとどめておいていただきたい)。

 たとえば、見る人が思わず足を止め、見入ってしまう写真が会場を埋め尽くす展示からは、エネルギーのようなものを感じる。また、制作にものすごい時間をかけ、没頭して撮り続ける行為も、熱量に関係してくるように思う。一日で、さっと撮った写真と、ある程度時間をかけて撮った写真は、見比べるとすぐにわかるものだ。熱量は、作品の力強さという、数値化できないものを温度という尺度で表現している、という見方ができる。この理屈なら、ひたすら写真の腕を磨き、枚数をたくさん撮ればよい、ということになる。

 しかし、質と量には、限界というものがある。量で考えてみると、撮影枚数が100枚から200枚に増えれば2倍の増加だが、10,000枚から100枚増えたとしても10,100枚になるだけで、わずか1%の増加に過ぎない。技術に関しても、ある程度上手くなると頭打ちになるし、上手さを目指すと、周りの上手い人たちと似たり寄ったりな写真になってくる。質と量という方向性だけでは、やがて行き詰まってしまうことになるだろう。

3.熱量を高める要素


 質と量は、ある一定を超えると、次第に上げるのが難しくなり、いつかは壁にぶち当たる。これは、水を温めても100℃を超えることができないという現象と近いかもしれない。水を100℃以上にしようとすると、沸騰し、気化してしまう。どれだけ加熱しても、100℃が上限となる。だが、これは1気圧の場合の話だ。1気圧とは、我々が普段から住んでいる標準的な地表(1013ヘクトパスカル)の気圧である。高い山に登れば気圧は低くなるし、深い穴の中では気圧は高くなる。この気圧によって、水の沸騰する温度は変化する。富士山の頂上では、水は100℃に到達する前に沸騰し、温度は約87℃で頭打ちになる。富士山頂で、1気圧の平地と同じ調理法でご飯を炊いたら、温度が足りずに半煮え状態になってしまうだろう。逆に、気圧が高ければ水は100℃以上に加熱することも可能だ。この作用を利用したのが圧力釜。これは、釜の内部に圧力をかけて、水を100℃の限界を突破させる調理器具だ。
 また、圧力釜は熱を逃さないという役割もある。熱というのは、温度の差があると、混ざり合ってそれぞれの平均の温度で落ち着く性質がある。熱は隙間があると、あっという間に逃げてしまう。暖房をかけているのに、窓や扉を開けっぱなしにしていては、電気代が無駄にかかるし、いつまで経っても部屋は暖まらない。熱を効率よく高めるには、断熱性の良い壁で囲い込む必要がある。加圧、そして密閉。これが、熱を高めるのに有効だ。

4.密閉すること


 話を作品制作に戻そう。写真から熱量を感じる、というのは比喩に過ぎない。だが、あえて実際の熱を高める方法を、制作行為に当てはめてみるのはどうだろう。つまり、作品を密閉し、圧力をかけるという方法である。

 まず、作品の密閉性を考えてみる。世界の昆虫写真を撮る作家の展示があったとしよう。昆虫の生態をよく研究し、希少性が高い虫を探す。それぞれの魅力を引き出した、こだわりを感じさせる写真が会場を埋め尽くす、というシチュエーションを想像してみてほしい。その展示からは、熱量と呼べるエネルギーを感じるのではないか。しかし、もしその会場に、作者のサービス精神で、撮影旅行記の写真が混ざっていたらどうだろう。作者が夢中で世界各地を飛び回っていることを、鑑賞者に伝えるヒントになり、より感情移入できる、という見方もできる。だが、それは写真が織りなす昆虫の世界に、現実味を持ち込む行為でもある。旅行写真がスパイスになり、作品として幅が広がる可能性もあるが、やはり作品の密閉性は損なわれる。旅行写真は、作者が創った昆虫世界に穴を作り、熱量はそこから逃げることになるのではないか。

 また、何気なく展示会場に置かれた、祝い花が熱量を損なわせる穴になる、という場合もある。会場に置かれた祝い花は、作品の世界から現実に引き戻すノイズになると、私はいつも感じている(もちろん、花をもらえるのは嬉しいが、それを展示会場に置くこととは話が別だ)。熱を逃さない、密閉度の高い展示は適度な緊張感を生む。

 展示の密閉性について述べたが、写真の構成の密閉性についても考えてみよう。
 作品は、コンセプトの上に成り立っているのが一般的だ。コンセプトの有無が、作品かそうでないかを分ける、くらいに重要である(コンセプトは、必ずしも言葉にする必要はない、とも考えている)。それは、コンセプトというのが、密閉になくてはならない壁として機能するからである。この壁がない作品を想像してみよう。SNSで、いわゆる「映える(ばえる)」写真を毎日のように投稿し、たくさんの「いいね」を獲得しているユーザーがいたとする。そのユーザーが、あるときは風景、あるときはポートレートなど、ジャンルも手法も入り混じった写真をアップしていたら、仮にどれだけ写真が上手く、「いいね」を稼いでいたとしても、それはいい写真の列挙である。対して、別に写真が上手いわけでもないが、ただひたすらラーメンを真上から撮った写真を投稿しているユーザーはどうか。私個人の感覚ではあるが、ラーメンを撮っているほうが、作品と呼ぶものに近い感じがする。ラーメンしか撮ってはいけないというルールが壁となり、その壁が密閉性を生み出す。そういう写真は、それにどんな意味があるのか、ということを超えて、バカバカしさが面白く感じられるし、それがどこまで続くのだろうという期待や、揃っていることの心地よさがある。だが、もし仮に、一枚だけカレーが混ざっていたりしたらどうだろう。見る側は、意外性で一瞬驚くかもしれないが、統一感から生まれる緊張は切れ、熱は逃げるのではないだろうか。

5. 時間と空間の壁


 展覧会を開くというのは、時間に密閉性を作るのに有効だ。精力的に活動している作家は、定期的に作品の発表の場を設ける。
 一般的に、展示をすることによって得られると期待される効果は、他者から自分の活動を認知してもらうためであったり、鑑賞者に意見や感想をもらうことで、作品をより高めるといったことだろう。さらには、作品を販売し、生活や次の制作の足しにもなる。また、発表することで初めて作品が完成する、という考え方もあるだろう。
 私は、もちろんそういった効果も期待するが、ここはあえて、締め切りを作るという効果に着目してみたい。
 展覧会は、やると決めたら、当然開催日までに作品を仕上げなければいけない。開催日直前ギリギリまで追い込んで、最善を尽くす。また、やりたいこと、見せたいものがたくさんあったとしても、展示できるものは限られている。展示という負荷によって、時間的、空間的な壁が生まれ、それらは圧力を高めることへの助けになる。

 展示のスタイルは、ギャラリーを使うやり方もあれば、最近はオンラインで開催されるものもある。オンラインは空間的にはいくらでも広げられるが、だからといってやりたいことをただ詰め込んだだけでは、緊張感が損なわれる。展示にとって重要なのは、時間と空間の制約。冷酷に過ぎていく時間に追い詰められながら、展示という箱に今の自分のベストを詰め込むこと。その行為によって、作品は形を成す。

6. さらなる加圧

 続いて、加圧について。圧力鍋は、内部に充満する蒸気の量をコントロールすることで、圧力を調整する。鍋は、基本的に内壁の広さを変えることができない。
 写真作品は、手元の写真の中から、どの写真を採用するかという、セレクトの作業がある。一般的には、よく撮れた写真を選んだり、作品として並べた時にストーリーが生まれる、などの基準で選ぶと思う。この基準というのは、鍋の内壁に相当する。写真を採点し、セレクトの合格ラインを50点以上にするか、あるいは80点以上にするか。当然、80点以上にするほうが、いい写真が集まる。ただし、そのセレクトを実現するには、手持ちの写真の質・量ともに充実していなければいけない。基準の高いセレクトを行うには、ポテンシャルの高い写真がたくさん揃った状態で初めて実現する。

 セレクトというのは、単に自分が好きな写真を並べればいい、とも限らない。時には、自分のお気に入りの写真が、作品の気密性に穴を開けることだってある。極端な例が、先程のラーメンの中のカレーだ。ラーメンを撮り続けるというルールはとてもシンプルで明確なので、誰が見てもカレーが異物なのはわかる。だが、写真作品はもっと複雑な場合がほとんどだ。思い入れという要素が邪魔をして、そのお気に入り写真を合格ラインにねじ込みたいがために無理をして、場合によってはコンセプトに歪みが生じる。そこから熱量が逃げてしまう、というケースも見てきたし、自分も経験した。思い入れのある写真だとしても、作品のコンセプトに即していなければ、バッサリと切り落とす。この覚悟は圧力を与え、作品の芯をより強くする作用が生まれるのではないだろうか。

7.制約を超えて


 私事ではあるが、私はコンテナの写真を撮っている。このシリーズの写真は、写っているコンテナの水平垂直がまっすぐで、被写体がすべて同じ位置、同じ大きさに揃えられている。構図に関しては、コンテナを撮影した最初の一枚から、ずっと継承している。きちんと厳格に揃えられている写真を量産できるのは、撮影に課せられた制約によるものである。その制約というのは、構図を揃えるということが第一。それ以外は、走行中のコンテナを撮る、直射日光があたっていないときに撮る、識別番号が書いてあるコンテナのみを撮る、など。撮影を続けていくうちに、勝手にいろんな制約が増えてくる。

 このシリーズ、制作をはじめて2年ほどで仕上げた写真は、およそ1,500枚ほど。ある程度、作品とした形になってきたタイミングで、私は、とある制約を思いついた。だが、その制約を課した場合、1,500枚の写真のほとんどがボツになり、残る写真は10枚以下となる。あまりに強すぎて、作品を破壊しかねない制約。しかし、その制約が作品全体に対して、どのような影響を与えるのか、試してみたいという気持ちがあった。私は、その制約をかけながら、継続した制作が可能なのかを研究しながら撮るようになる。そして、気づいたら自然にその制約を課したものを撮影するようになっていた。10枚まで減ってしまった写真が、その制約の元で3,000枚まで膨れ上がり、熱量はより増したと感じている。

 圧力をかけることは、時に痛みを伴う。下手をすれば、作品にとってのマイナスになるかもしれない。だが、私はそれをやる価値があると考えている。うまくいけば、熱量をより強いものにして、自分の限界を打ち破る力になり得るからである。

 ここまで、作品についての熱量に関して考察してみた。上述した内容は、比較的ストイックな制作スタイルだと思う(これは、私自身がそういうスタイルで制作しているので、それが反映された結果でもある)。誤解のないように言っておくが、別に熱量が高い作品がいい作品だ、と主張するつもりはない。あくまで熱量という、目に見えない、定義も曖昧なものについて、言語化を試みた。緊縛的な制約を設けて、圧をかけながら作品の方向性を模索する、なんていうのは合理的ではないし、泥臭く時代遅れのやり方と思われるだろうか。実際、現代のアートというのは、もっとスマートなものも多い。もしかしたら、現代アートはまた別の形で、熱量に相当するものを生み出しているのかもしれない。コンセプトという器に、アーティストの感情や体験、哲学、社会に対する主張、視覚的な実験などを詰め込んで形にしたものを、現代アートと呼ぶ。そんな見方もできるのではないだろうか。
 

8. コレクションからセレクションへ


 私が通っていた写真の専門学校では、いきなり好きに写真を撮って来いと言われた。他の美術系の学校では、まず美術史の勉強があり、コンセプトを打ち立てて、それから撮影に挑むということを聞いたことがある。私たちが学校から課せられた制作は、それとは異なる方針だ。空っぽの状態から、撮影の中でコンセプトが生まれるのを待つ。一見効率の悪いやり方である。しかし、明確な目標もなく、あちこち寄り道していると、次第に目指す場所が見えてくる。撮影に没頭していると、やがてコンセプトが固まってくる。そのコンセプトを成立させるために、ルールが加わる。この写真はよく撮れているけれど、ルールに合致していないから作品群から外そう、など。たくさん撮り、どんどん膨れ上がる写真。それを制約によって削り落とし、輪郭が現れる。さらに撮影する。再び削り、輪郭の解像度が上がる。それの繰り返し。
 撮りたいから撮っただけの写真は、コレクションに過ぎない。それを作品にするには、制約によって削り落とす作業が必要だ。コレクションからセレクションに変わること。膨大な写真が削り落とされ、体積は小さくなる。その中に残った写真は、枠の中で極限まで圧縮され、そこに込められた質、量、情熱(もしくは狂気)は、より強い熱を放つのである。


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