はじめまして、こんにちは

はじめまして、こんにちは
昔から文章を徒然なるままに、自由に、何も考えずに書くことが好きで、文章を書くことで「自分」というものを確認していたように思います。
私に撮って文章を書くことは「自分の確認」だったり「頭の整理」だったりしていたのかもしれないと、大人になって思うのです。

だんだんと文章を発信したり書くことが少なくなり、社会人になったことにはもう書くことをやめていました。
毎日に追われ。追われといっても、楽しいことに追われていたという表現が適切であったくらい毎日何をそんなに急ぐのか。というくらい遊んでいたような気がするけれどそんなこんなで文章を書かなくなり、そしていつの間にか子供を持ち結婚をし、書かなくなってから10年が経とうとしています。それと同時に、本を読まなくなってからも随分経ちました。あんなに毎日読んでいた本は、いつしか映画になり、毎日毎日映画を見ていたのに、いつしかそれがネットサーフィンやSNSになった。

そんな中でいつしか私は「居心地のいい私」を見失ってしまいました。
かといって、今が毎日苦しくて歩き方がわからないわけではなく、これが「大人になる」ということなのかもしれないなんて思ったりもするのだけれど、遠い昔に自分が書いた文章を読んだり、遠い昔に見ていた映画の表紙を目にしたり、遠い昔の音楽を聞いたり、そんな日常でふと触れる昔のカケラを感じるたびに「遠い昔の自分」が恋しくなるようになりました。

「忘れたくなかった何かを忘れている気がする」
無性にそう思うようになったんです。

そんな事を思いながら、今の日常を過ごしていたある日
ふと大人になってできた友人に、ダンスがすごいから見てみな。と言われて、お皿を洗いながら流し見をしていた「平井堅」さんの「ノンフィクション」という動画
ダンスもすごかったけれど、私はその歌詞に一瞬で脳を奪われて、思わず手を止めて聴き入ってしまいました。

かつての私、そう思いながら生きていた かつての私。

地獄のような日々だったと思いながらも、今や私しか知らない「かつての私」
地獄でも、苦しくても、思い出したくないような日々でも、あの時の私を知る人はもう「私」しかいなくなってしまった、私しか知らない、もう誰も私以外は知らなくなってしまった「かつての私」

「かつての私」を私が忘れてしまうと、とても大切なものを失ってしまう気がして。
「かつての私」のおかげで今の私はこうしてここにいて、「かつての私」である「あの子」を私が忘れてしまうと「あの子」は最初からいなかったことになってしまう気がして。

「あの子」には私しかいないから。

そんなこんなで、「あの子」のハナシをかけたらいいなと。

「あの子」はかつて、生きていて「あの子」はしっかり存在していた事を
私だけでも忘れないように。
そして今「あの子」のような「誰か」に届いたりしたらもっといいな。と。


今日は、このへんで。


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