旅の土産: 「鍵もち」(京都)
江戸時代享保年間(1716〜1736)に創業されたという老舗菓子店、「鍵善良房」の「鍵もち」。
ある人は旅行に行く前からこの「鍵もち」を激賞していて、これを買うために京都に行くんだくらいの勢いでした。
京都の土産といえば八ツ橋くらいしか知らなかったので訊いてみると、もちの食感と味がいかに素晴らしいかたっぷりと語ってくれたのですが、その内容はもはや詳しく思い出せません……。もっとちゃんと聞いておけばよかった。途中で「信玄餅」と比べてどうかという話になり、これは周りにいた他のメンバーも巻き込んで大論争に発展し、収拾がつかなくなったのは覚えています。信玄餅なら僕も知っているので、とりあえず鍵もちは信玄餅と肩を並べるほどのお菓子らしい、と大雑把な理解を得ました。
と、わりと他人事のように聞いていたのですが話の終盤には、「とにかく俺は鍵もちを買うんだ。お前ももちろん買うだろう。」みたいなちょっと熱い感じになっており、こうして僕はよく分からないまま鍵もちを購入することが決定していたのでした。
丁寧に包まれていて、贈り物にも良さそうですね。生菓子だと日持ちしないものが多いですが、お店で聞いたところ、こちらは一週間ほどもつそうです。
ふと、この間の「マダムブリュレ」とはもうこの時点でまったく逆の印象を受けていることに気がつきました。
マダムブリュレは箱からして見た目のインパクトが強かったのに対して、この「鍵もち」は、それほど派手でも大きくもないこの長方形の箱が、ずっしりと重いんです。この重さで、スイッチが入るというか、これからお菓子を頂くのだという構えがこちらにもできるというのでしょうか。
すぐれたお土産にはしばしば、食べるという営みが本来もっている複雑さ、その豊かさを思い出させてくれる仕掛けがあります。あるいはもっと単純に、これはちょっと一味違うなと思わせる「オーラ」を発生させるものが。鍵もちであればそれはこの箱の重さであり、マダムブリュレであればそれはあの箱の視覚的イメージだったのでしょう。
鍵もちに戻りましょう。ここで重い、と感じることで、まだ見ぬ箱の中に鍵もちがぎっしりと入っていることを私たちは想像できます。その想像は箱を開けるときの胸の高鳴りを大きくし、また、箱を開けてそれを見る前からもちがぎっしり詰まっていることに気付けることによって、見た時にはまた違うことを感じたり、思ったり、考えたりすることができるかもしれない。箱を取り出して開けるというプロセスが僕たちに何かを伝えてくる、一つの表現として成立しているからこそ、そういう余地が生まれてくるわけです。
はい、こんにちは。
おや?
それでは、いただきます。
この時点ですでになんとなく伝わっているかもしれませんが、とってもやわらかいです。口に含むと食感はふわふわ。表面のきな粉と牛皮の一体感は言わずもがな、噛めば噛むほど牛皮からほんのりとした甘さが滲み出てきて、口の中できな粉が消えてからも、パラダイスは終わりません。
はじめは、純粋に味だけみると黒蜜のかかった信玄餅ほどのインパクトはないので、本当に美味しいか、と疑い深い僕などは一瞬思ってしまうのですが、それはむしろ鍵もちにそう思わされると言った方が近く、ときに優しい人が寛大な隙を見せるのと同じで、
それもまた鍵もちの懐の深さゆえなのです。
と、まあそんなことを思っている間にも手と口は全く止まらずに動いているのですが…。流石に一人で一気に食べる量ではないので何日かに分けて食べるのですが、最後の一口になる頃には、もうすっかりこのお菓子のとりこになっていて、仲良くなった小学校の友達が転校してしまうときのような、懐かしくも切ない気持ちに胸がいっぱいになりました。また会おうな…。
ところで、僕が鍵もちを知った経緯が経緯なだけに、てっきり「鍵善良房といえば鍵もち」くらいの看板商品なのかと思いきや、なんとここはくずきりが有名なお店らしく、衝撃を受けました。
今度行ったら二階に上がってくずきり食べて、お土産に鍵もち、ですかね。