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東山魁夷館再訪の感想を再び試みるという意気込みでこの文章を書き始めた。たしかに東山魁夷の絵について語ってはいるがこれはいったい……

なんだかややこしいタイトルになってしまいました…。

今度こそ、東山魁夷館で見てきた絵について語りたいと思います。


東山魁夷の描いた絵は、大きく2種類に分けられます。

①ひとつの風景全体を描いたもの
②風景の一部を切り取って描いたもの

主に、
①が本制作、
②が習作やスケッチと分類されています。

もちろん、
これは風景の全体か一部か、とはっきり分けられないものもあるでしょうし、

本制作だから風景の一部に焦点が当たってないとか、
スケッチだから全体を捉えてないのかというと、
必ずしも全てがそうとはかぎりません。

あくまで大まかな傾向であり、
僕の個人的な視点です。

どうして東山魁夷の絵について、このような見方を採用してみる気になったのかというと、東山魁夷館へ二度目に訪れたとき、一緒に鑑賞したNさんの感想がきっかけでした。

「うーん、なんか、景色がどーんと描いてあるやつは、ああきれいだなとか、いいなってまだ分かる。でもなんでそこだけ描いたのって、よく分からないのが多い」

展示室を出るとひらけたラウンジがあって、先に出たNさんが待っていたソファに僕も腰をおろす。包み込まれるやわらかな感触に体の緊張もほぐれ、ひと息つきながら、「どうでした?」と話題を振ってみると、こんな答えが返ってきた。

僕は特に何も意識せず一つ一つの絵を見ていたので、Nさんが、分かる絵と分からない絵、というふうに二つに分けたこと自体が、新鮮で面白く感じました。
なるほど、たしかに言われてみれば、風景をどーんと描いた絵と、風景の切り抜きみたいな絵があったな、とこのとき初めて意識したのです。

そして、実際にこのように二つの傾向を意識してみると、
もやが晴れたように、
今まで気が付かなかった絵の魅力や、
鑑賞の楽しみ方に気づいて、
誰かと一緒に行く美術館は、
一人で行くのとはまた違って面白いなあと、
つくづく思いました。


※以下、主に①のタイプの魁夷の絵について語っています。

冬の旅
秋思
静唱


風景が一つの完成された世界を表現しています。
本制作の絵は画面も大きく、見ていると景色の中にゆっくりと引き込まれていくようです。

——静寂。

東山魁夷の絵をひとことで言うなら、僕はこれ以上ピッタリな言葉をほかに知りません。

見つめているとやがて周りの現実は見えなくなって、
風景と私だけしかいない、
そんな感覚がやってきます。

魁夷自身の言葉でいえば、
「風景は心の鏡である」。

描かれた風景が見えるようになったとき、
その風景を見ている私の澄んだ心をもまた、感じる。

なんとも不思議な感覚です。他の画家の作品を見てもこんな感覚を味わったことはないので、魁夷の絵は技術や内容どうこうよりも、まず体験として唯一無二のものだという気が直感的にします。

絵からただよう静けさの点では、北欧のフェルメールとも呼ばれるデンマークの画家、ヴィルヘルム・ハマスホイの室内画を想起させ、

一人きりになれるという体験の点では、フィンランドを代表するクラシック作曲家、ジャン・シベリウスの交響曲と相通じるものを感じます。

魁夷の絵は静かで無音的なのに、音楽と似ているとは矛盾するようですが、体験として似ているのです。

絵を見ているとき、音楽を聴いているとき、どちらも、一人きりだ、という感じがするんです。
これは一人ぼっちだ、そして寂しい、という感覚とは違っていて、どこか安心感があって、孤独じゃないんです。

この前、谷川俊太郎さんが詩を書き、合田里美さんが絵を書いた本『ぼく』が完成するまでの、編集者、詩人、イラストレーターのやりとりやインタビューを収録したNHKのドキュメンタリー番組を見ました。

本は子どもの自死をテーマにした内容なのですが、
谷川さんから合田さんへのメールであるとき、
人間には社会内的孤独と宇宙内的孤独の二つの孤独がある、という話がありました。

なんだか難しそうな話です。

しかし、谷川さんの言いたいことと合っているかはともかく、この言葉を僕なりに解釈すると、

人は、自分が社会の中で一人ぼっちだと感じる。
人は、自分が宇宙の中で一人ぼっちだと感じる。

そういう生き物であるということです。

前者は多くの人が頷くことでしょう。
後者は、なかなか難しいのではないでしょうか。
自分が宇宙の中で孤独を感じているなんて、本当か。
たとえそうであっても、そうと認識できる人がどれだけいるのか。

宇宙内的孤独を言葉にするのは難しいのですが、
魁夷の絵やシベリウスの音楽は、
それを伝えられるのではないかと、
僕はひそかに思っています。

魁夷の絵を見ていると(あるいはシベリウスの音楽は)、そこに人間として存在を感じられるのは一人(私)だけ。そういう世界です。
しかし、人はそもそも人だけでこの宇宙に存在しているわけではない。他の生き物や自然と共にいるのだということを、思い出すことができるんです。
谷川さんの言葉をかりていえば、「宇宙内的には孤独ではない」。
だからどこか物寂しさをおぼえる作品に触れても、辛く、苦しい気持ちにはならない。

たとえ社会内的に孤独だとしても、

宇宙内的に孤独じゃないから、

死にたくならない。

ああ、そうだ。


思い出した。







この世界は美しい——







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