ハーブティーを飲みながら、人生の短さについて考えた人のその文章について
ガパオライスの続きです。
さて、前回はガパオライスを頂きながら、セネカの『人生の短さについて』を読んでいたのでした。途中でガパオライスがなくなるアクシデントで消化不良に終わってしまった感があるので、ハーブティーを飲みながら、続きを書きたいと思います。
これそのものが食後のひとときのような、そんな文章が書けたらいいな。では、はじめましょう。
セネカ『人生の短さについて 他ニ篇』茂手木元蔵訳 岩波文庫
内容だけをあえて一言で要約するとこうなります↓
「ほかの誰かや何かのためではない自分の時間を大切にしよう」
…と、まあ要約はできるのですが、そもそも要約してもあまり意味がないかもしれません。
というのは、たしか文庫の解説にも書いてありましたが、セネカの文章は内容と表現がセットでひとつのものであって、文章の迫力を感じながらでないとその内容を理解することはできないからです。理解できないというとちょっと大袈裟かもしれませんが、少なくとも、はじめから要約を目的として、文字を表面的になぞってスラスラ読むような仕方では、内容が深く心に響いてくることはない、とは言えるかもしれません。
ところでこの内容と表現が一体であるとはどういうことなのか。セネカの文章を具体的にみてみましょう。
僕はラテン語が読めないので、日本語に翻訳された文章を読んでいますが、このように翻訳されている文章からも伝わってくるのは、これが理性によって練り上げられた、修辞的に非常に美しい文章だということです。
内容だけに関していえば、
「人付き合いとかつまらないならいっそやめて、自分の趣味とかに打ち込んだ方がいいんじゃない?」
「依存すると不安定になるからほどほどにしておけよ」
同じようなことを、僕たちも日常会話で言うことはあります。
しかし、先に引用したような、つまりセネカのような表現はふつうしませんよね。その場の思いつきや、パッと浮かんできた言葉でなんとかしている。それが何を意味しているのか考えてみると、
内容として言いたいことはだいたい同じであっても、セネカのほうは、どう言うのが最も効果的か、考え抜いたうえでこの表現を出してきたのだ、ということが、だんだんわかってきます。
内容を表すための最も効果的な表現を模索する中で、
事象をよく観察し、本質をとらえる。
論理関係を詳細に検討し、適切な言葉で処理する。
抽象的な内容を伝えるために、わかりやすい、鮮やかな比喩をもちいる。
セネカはそういう作業をしている。その時働いているのは、理性ですね。
…と、以上のような分析を今回はあえてしてみましたが、こんな風に言葉にしなくとも、読者はセネカの文章からそういうことを感じとるからこそ、セネカの述べている内容が、身にしみて理解されくるわけです。
セネカがやっていること、つまりセネカの表現は、理性によって練り上げられた修辞的に美しい文章で、人間の行うべきこと、また行うべきでないことを述べるというものです。
そしてその内容はというと、今回は、人は自分の時間を大切にすべきであって、それを意識せずに人に与えていてはよく生きることはできない、というものです。この内容は、その場の思いつきではなく、理性的に考えることで導き出されている。
セネカの表現を味わうことと、その内容を理解することが同じであるということ。内容と表現が一体であるとはつまり、こういうことではないでしょうか。
ところで僕自身はというと、今回セネカのように言いたいことをはっきり言えたかどうか、大変心許ないです。
いうまでもなく長く語りすぎていて、ハーブティーも、もうとっくに消失しています……
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