「かがみの弧城」を読んで

「かがみの弧城」を読んだ。
母が妹に借りてきたのだが、今朝、私にも面白いと勧めてきた。
「ファンタジーで中学生が主人公だから子供向けかもだけど」
そう言って母は私に上巻と下巻の両方を渡した。

読書の秋ということもあり、ポカポカと日差しが差し込む部屋に寝転がり、私は「かがみの弧城」を読み始めた。
想像以上に感動し、上巻と下巻を一気に読み終えた。

今は、感極まってこうやって感想を書いている。

「かがみの弧城」は、リアルなヒューマンドラマとファンタジーの塩梅がちょうどよく、共感と好奇心の双方を掻き立てるものとなっていた。

話の流れとしては、学校で不登校になった中学1年生のこころが自分の部屋にある鏡を通じてお城というファンタジーの世界に入り込み、そこで、理由は違えどこころと同様、学校に行けないで悩む中学生6人と出会うところから始まる。

お話の中でファンタジーの側面が強くなるのは、お城の門番である狼の仮面を被った少女が終始、話の展開に影響を与えたり、そのお城に隠されているという何でも願いが叶う鍵の存在があるからだ。

しかし、お城自体は、学校に行けずにいろいろ悩みを抱える7人の中学生の居場所となり、単なる「ファンタジーの世界」だけでは片付けられい場所として確立していく。

私は、本書のファンタジーの側面も十分楽しんだが、何よりファンタジーの間に垣間見えるヒューマンドラマに胸が締め付けられた。

特に、主人公のこころの心境の描写では、言語化できないもどかしさが込み上げてきた。

こころは、自分をいじめた同じ中学校の美織や、その美織を庇うような発言をする担任の伊田先生に対して、「言葉が通じない」と、彼らと分かり合えない状況を説明した。

言語は同じ日本語なのに、言葉が通じない。

「思っていることが通じないもどかしさ」を感じたことがある人はたくさんいるのではないだろうか。おそらくこころが度々言う「言葉が通じない」というのは、自分が思っていることが相手に完全に理解してもらえない苦しみを表しているのだろう。

この「言葉が通じない」という現象が起こる理由として、一つの出来事に対する解釈が人それぞれ違うことが挙げられると思う。

同じ出来事を経験していても、立ち位置や環境によってその出来事の捉え方は変わってしまう。だから、「事実が正しい」なんてことは到底ありえないのだろう。

なぜなら、事実の裏にはそれぞれの解釈があり、その解釈の裏にはそれぞれの言い分がある。そして、その言い分はただその場しのぎの言い訳ではなく、おそらくそれぞれ自分が正しいという気持ちに駆られて形成されるものだろう。

だから、
「事実の捉え方が異なる」

ことは仕方がないことだと思う。私たちはどうしても自分以外の誰かを完全に理解することはできないし、出来事ひとつひとつの共通理解を周りと確かめていたら次に進めない。そして何よりも、世界が単純でつまらなくなる。

だけど、仕方ないで片付けれないことがひとつある。それは、人間関係が対等ではないということだ。

彼らの世界で、悪いのはこころ。
どれだけこころの立場が弱くても、弱いからこそ、強い人たちは何も後ろ暗いところがないから、堂々とこころを責める。学校にもこないし、先生にも意見を言わない人間は何を考えてるかわからない。理解しなくてもいい存在だから。

かがみの弧城下 ページ129

上記は、こころが「言葉が通じない」という現実を痛感した直後に自分、先生、自分をいじめる美織の関係性を相対的に考えて出した結論だ。

この結論は、「対等な人間関係は、そう簡単に構築できない」
ことを暗示している気がする。

今まで意識したことはなかったが、だいたいの場合、複数人いる人間関係では誰かが発言権を持っていたり、誰かの解釈が普遍的な事実として共通理解の基盤を作る。

つまり、人間関係におけるパワーバランスが常に均衡に取れることは難しくて、「弱い」立場にいる場合は、その人の解釈がねじ伏せがれてしまい、言葉が通じないと感じる場面が増えてしまうということだ。

「事実の捉え方が異なる」
のに、事実がひとつにしかないように思えるのは、人間関係の不均衡さからくるものではないだろうか。

だから、私は声を上げれない人が「声をあげる」ことと、その声をあげるのを支えることが大切なんだと思う。きっと、中学生のこころが抱える「言葉が通じない」というもどかしさに気づけるこの社会は、もっと優しいところになると思う。


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