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親にも友達にも、誰にも理解されなくてもいいから、自分が大事にしたいと思った信条や宝物は、ずっと大事にして生きていこう

僕には弟がいる。

弟はプラモデルを作ることと、ゲームをすることが、非常に好きだった。今はどうかわからないけれども、昔はいわゆる「ガンプラ」をよく作っていたことを鮮明に覚えている。

ゲームも好きだった。どんなゲームかはあまり覚えていないが、よく夜中までやっているのを見ていた。

今思い返すと、すごくいい趣味だなと思う。ものを作ることの楽しさ、何かに没頭する力、それを肌感覚で体験しているからだ。

今だからこそ、気づけたことが一個ある。誰にも理解されなくていいから、自分が大事にしたいと思ったもの・価値観をずっと大事にして生きていくことが、大事なんだろうなぁと。

よく弟は親から水を差されていた

こういう価値観を大事にしていく上で、否定しないことがもっとも重要だと思っている。

もちろん誤った方向に行く趣味とかであれば、それは止めなければいけないけれど、ほとんどの行動は制限をかけられるようなやばいものではないはずだ。

加えて、そういった価値観を否定することで、あらゆる可能性の芽を摘んでしまう可能性が高いと思う。

その点、うちの母は、弟がゲームをしたり、プラモデルを作っていたりすることに対して、度々水を差していた。「高校1年にもなって、そんなことしてていいの?」とか。

それは、僕にも投げかけられた言葉だった。自分も小さい頃はよくゲームをして遊んでおり、中学生として時間を過ごすうちに、そう言われるようになった。

あの頃の純粋な自分は、その言葉を信じ、鵜呑みにして、親の目を気にしていた結果、ゲームをするという選択肢を自らの手から手放したのだ。

別にそれが今更悪いとか、はたまた親が悪いとも思わないが、僕はその時、自分が持っている価値観を一つ捨ててしまったのだ。親が持ち合わせている価値観によって自分が矯正され、染色されていった。

そういったことがなければ、もしかしたら今頃、ゲームという価値観は存続し、自分の確固たる信条が一つあったかもしれない。

自分の信条・宝物を大事にして生きていく

なぜか人は、そういった流れのようなものに抗うことをやめる。争うことでエネルギーを消費するし、何より楽だからだ。自分がそうだったからこそ、なおさらそう思う。

しかしこれに慣れてしまうことに対して、僕は少しだけ危機感を覚える。

なぜなら、大器晩成する可能性のある価値観が次のステージに移行できず、その個人が持っている可能性の芽を摘むことになるので、未来の選択肢が狭まってしまうからだ。

ゲームが好きな人だからこそ、自分がやってみたいと思うものを作りたい。ゆえに、ゲーム会社に就く方もいるように、自分の好きなものによって自分を拡張していく可能性を、どんな人間も持ち合わせている。

にも関わらず、それを摘み取られてしまう現状があるのも確かだ。

それは、ある会社に勤めることでも当てはまることではないかと思う。

「未来はこういう風にしたい」という心情を抱いて入社したのにも関わらず、周りの空気に流され、上司の意見に従い、いつの間にか会社の歯車となり、意見を発することをそもそもやめるなんてざらにある。

流されることは簡単で、抗うことは苦しい。けれども一人の人間である以上、自分の意見をしっかり持った上で発信すること、要は自分を持つことが重要であると思う。

編入試験に挑戦するときもそうだった。そんな苦しい思いする必要ないのにって親に言われた。けれど、「違う、自分がやりたいからやるんだ」とそう反論したことを覚えている。

理解されなかったかもしれない、そんな逆流にわざわざつっこむようなことをすること自体が。でもそれでもいいのだ。

たとえ理解されなくても、自分が自分のやることに、しっかり納得して行動しているのだから。

自分自身のこれだけは譲れない、そういった信条や宝物が、自分の未来を切り開いていくと信じている。

だからこそそういった価値観のもと、周りの情勢に流されず、自分が思う方向へと進んでいけばいいのではないだろうか。

※僕の人生を変えた大学編入という物語は、こちらにまとめています。

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