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読むことに時間の流れる、書くことに時間の流れる____小説論についてと乗代雄介「旅する練習」で考えたこととか


読むことに時間の流れる


 私はこの3月で大学を卒業する身であり、昨年のうちは就活と卒論(とあといくつかのいらない余計なこと)に奔走していたものだが、どちらも日々の「読むこと」が実らせたものが多い。あまり「読むこと」のない同年代の人間と私は比べていいものかどうか知らんしそんなことする必要も筋合いも偉そうなこともできないが、なんだかんだでただ読んでいたことがどこかでつながったということは不思議なことだ。読まない同年代になにを言おうが無駄で本を貸してもろくすっぽに読まれずに放置され、返されずそのままぞんざいにされるのがオチである。私は対面で会える範囲の、たとえば大学やその辺りの同年代の人間のほとんどは信用していない。
 
 私は「読むこと」が特別なことであるとは思えない、ましてや自分の読みなどはかなり下手くそで乱雑なものと意識している。
 この文章を書いている少し前に今から二年前にどこぞの馬の骨の影響か読書録なるものをつけていたノートを出土したが、読めば赤面、実にしょうもないことばかりを書いている。読んだ当時の感慨を振り返ることもできようが偉そうな批評的、非還元的な取り留めのないものであり、また大した分量でもないことから、読んだものから考える力さえ足りていないとさえ思える。食事に例えると、ジャガイモという食材を茹でたりもしくは電子レンジで蒸して、潰して小麦粉と混ぜて練り、ニョッキにする手間を世間で言うところの「精読」とするなら、これは市販のポテチでじゃがいもをとるということである。この例えが適切かようわからんが、素材のもちえる豊かさ質量ではなく、素材の数という点でむさぼる暴食的な所作だと言える。
 もちろん、これを批判的に捉えれば、「精読」ーたとえば平野啓一郎がちょっと前に提言していた遅読(スローリーディング)などのようなものもこの文章では含めてみようーであったり、「再読」ーこれに関して私が高3の頃良くお話をしてくれた同級生女子が小説でも映画でも必ず2回読む、見ることにしていたーなどを怠らないでおくことが「読むこと」に推奨されるだろう。遅読はそもそも速読のアンチテーゼだろう(不勉強ながら平野のその本まだ読んでへんのだが)が、自分が速読をぶっかましているのかどうは知らない。実用書などと言った本に対してそれは効果的だろうがここで議題の玩具にしたいのは小説、詩などの文学から、それを論じたもの、それから哲学書といったものである。読み返せば読み返すほど味が滲み出るし、数年ぶりに読み返すとこんなふうに読めたかという疑いや、読めていなかったと後悔することばかりである。

 保坂和志が小説論で提言している「小説というものが読んでいる行為の中にしかないということ」は私が小説を読むこと、書くことを考えるたびにチラつく。これはガルシア・マルケス「百年の孤独」を読むのに登場人物の整理をするのに家系図を見ないでその都度読み返すという運動性から導き出した、読むことに時間の流れる空間だろう。昨年の半ばにたしか久しぶりに読み返したとき、ネットの住民に私は辟易したが(どうやら「百年の孤独」フリークの人間がいるらしく、作中の出来事や登場人物など地区一まとめているブログを立てたり、引用リツイートなどで作品を神格化とも取れる賛美をされたり、なかなかの人間であった。ちなみにブログの体裁が不明瞭か更新が途絶えているのかそのまとめブログは見つけられなかった。まあ見る気もないのだが)
 このような運動性はベケットの「モロイ」などにも言及されているし、近い話だとneveuさんのクロード・シモンの作品群の読み方の指摘にも言えることだろう。もっともシモンの場合は時系列の線に加え、絵画的な空間、景色の細かい叙述、そこから記憶のつながりがパズルのようにバラバラになっている印象がある。ちなみに古川日出男も「百年の孤独」を家系図を見ないで読み返しをしながら読み続けるという指摘をしている。

 小説を読み過ぎた人間からすれば、一年前の今頃何を読んだかなんて漠然としないかもしれない。私はそれなんだが、読んでいた時に何があったか、何を考えていたか逐一書き留めておけばいいが大したことを考えていないだろうから書き留めてこなかった。その最中にしかない、過ぎるものを過ぎたものとして流れて消えていく。点滅……、この書き留めの蓄積と書くことを続けて作家として実った例で、乗代雄介が挙げられる。



乗代雄介の最新作「旅する練習」はそうした日記のような記録から結実した作品のように思える。昨年3月ごろ、(ダイヤモンドプリンセス号での食い止めに失敗し、コロナが日本にも蔓延し始め、緊急事態宣言が出る少し前、トイレットペーパーが買い占められる頃だったと思う)を舞台だが、著者が行なっているという風景のスケッチ(上にリンクをあげたこのインタビューの後半でも指摘している)が発展して、亜美ちゃんとの「練習する旅」の光景を繋ぎ止めている。作家を称する私が見えていた風景、そしてサッカー少女の亜美ちゃんのリフティング、何気ないことをつらつら書いているように思われるが、この蓄積と繋がりがあってこそのラストの唐突さに味が出ている。唐突さと言ってしまったがところどころにその予感というか不穏さが混じっており、それがどこかコロナ禍で炙り出され始めたその唐突さが案外当たり前なんだ、どこでも起こり得るのだということを思い出される。それによって「書くこと」に「残る」という意味が付与されるように思える。意味がない、わけではない。書かれたものに起こる実在。それは「旅」の思い出だけでなく、その経路にも滲み出ている。彼らが歩いた道が歴史や文学、宗教やスポーツ選手、世界は関係しているということを見出していく。亜美ちゃんがそれは自分にとってサッカーがなければ気づかなかったと言っていたが、それは叔父にあたるこの語り手私には「書くこと」であり、読者の私たちには「読むこと」である。

旅する練習 https://www.amazon.co.jp/dp/4065221633/ref=cm_sw_r_cp_api_i_S-0dGbETHMNRK

書くことに時間の流れるー

 この頃の怠惰な「物書き」遊びのリハビリのために作家の記した自伝や自身の創作に関するエッセイなどに手を出して参考にするという、いかにもベターな真似をし始めている。筒井康隆が「創作の技術と掟」を刊行した際にいわゆる小説作法は文章読本だ言ってたとはいえ、なにも谷崎や三島などの中公文庫から出てるようなものから読むのも手だが、なぜかその二人は説教くさくてだいぶ前からほったらかしで、実際手につけたのは以下の数冊である。

・保坂和志「小説の誕生」

小説の誕生 https://www.amazon.co.jp/dp/4103982063/ref=cm_sw_r_cp_api_i_-80dGbBP1TRGX

・村上春樹「職業としての小説家」

https://www.amazon.co.jp/dp/4101001693/ref=cm_sw_r_cp_api_i_x90dGbS92MPMW

・磯崎憲一郎「金太郎飴」

金太郎飴 磯崎憲一郎 エッセイ・対談・評論・インタビュー 2007-2019 https://www.amazon.co.jp/dp/4309028519/ref=cm_sw_r_cp_api_i_S90dGbZST2FN5

・丸山健二「まだ見ぬ書き手へ」

まだ見ぬ書き手へ https://www.amazon.co.jp/dp/4022567503/ref=cm_sw_r_cp_api_i_j-0dGb2QQFY85

保坂和志の小説論三部作はつねにちまちま読んで「小説、世界の奏でる音楽」まで読み終えたら「小説の自由」に戻るという、レギュラー的立ち位置を確保している論だから特に細かくここでは(まあすでに上で「百年の孤独」から「小説に流れる時間」で言及してしまったが)書かない。村上春樹の「職業としての小説家」これは読んでから村上春樹という作家の印象が変わった。非常に謙虚で自惚れていない、小説に対して真摯である。一方で丸山健二(私がツイッターでマルケン、マルケンとまるでマブダチのように言っているが、愛想が尽きた中村文則をブンソクと呼ぶようなノリである)は孤独を推奨し、その最中に文学というものを追求すべきであり、文壇の絡みなどは実にくだらない、日本文学が衰退の一歩を辿るのはこのせいだ、本当の文学は俺だ!といういかにも本人が嫌煙する腹切って死んだあの作家や女と心中して川に飛び込んで死んだ作家などにおける「自己陶酔」を、やり口を変えて行っているようにしか見えない。
 とはいえマルケンと村上春樹には共通点がある。文壇からの距離の取り方である。春樹は海外へ飛び、諸国を転々とし、あるいはニューヨークで作品を売り込みもした。マルケンの場合、当時最年少で芥川賞を取ったその2年後には長野安曇野に移り、以後ずっとそこから小説を発表している。(必要な情報かどうかわからないがマルケンは66年、村上春樹は79年デビュー)
 文壇の腐敗という視野を持てば、筒井康隆「大いなる助走」も顕著な例であろう。最近私は佐藤浩市主演の「文学賞殺人事件 大いなる助走」をAmazon prime videoで見たものだが、某劇場型新人賞受賞のために選考作家の買収、もしくは彼らに体を売るという負け犬のような真似をしてまで作家になるために手段を選ばせない、文壇の構図が描かれる。それは作家たちの配線もあることながら、彼らを操る編集者たちの出版社の売り上げのために銭ゲバじみた思惑が渦巻いているから起きることであって、おそらくマルケンだって村上春樹だって、あるいはSF差別を受け続けた筒井康隆だってそう見えたのだろう。
 今年の初めにあった芥川賞だって、文学賞殺人事件で起きた出来事、若い女の子が、大学生が芥川賞を受賞するというセンセーショナルな、それこそ話題性を持った人物が受賞するという構図がまた起きた。「推し」という若者が行っている事柄を文学にしたとしてだが、令和の綿矢りさみたいなものなのか。まあ芥川賞なんて所詮文壇がマスゴミに貼り出せる数少ない広告塔枠だから、全然現代文学とかいうものの定期公演だと思うしかない。

 話があまりもズレてしまったが、書くことがなんのためになるのだろう、自分の「書くこと」が実にアホらしいと感じる今日この頃である。マルケンの本は図書で読み、手元にないのでノートに取った部分部分でしかこの文章ではモノが言えない。くり返すがマルケンも村上春樹も似たようなことを言っていた。「文章になんてわざわざ書く必要」があると思えるものがあれば書けばいいし、そんなものなければ普通に生活し、普通に働き、普通に生きていけばいい、と。
 残念なことなのか幸運なことなのかしばしばその狭間で揺れ動くというよりかはどちらかといえば後者に傾きつつある私は、いまや文学の力というものよりも、先にあげたような「文学」の世界に幻滅を覚えている。作品についてではなく、それが受容されている状況が自分の感覚と合わなくなっている。この大学生の間、ほぼほとんど書店のアルバイトを続けてきたが、芥川賞のような劇場や、出版社の売り出し方、そしてそれをどう店頭に並べていくかという光景、どれも何か文学を商品化しているという感が拭えなかった。たしかに文学は消費されてなんぼなんだし消費つまりは読まれていかなければ文字通りの衰退を辿るだろう。日本の文学の市場が衰退してるのかどうか私は知らないが、活気に溢れているとかいう人間もいる。
 私はどうやら、ちまちま古本なので見つけた自分が生まれる前に死んだ作家や、もう出版社が絶版にしてしまった本などを見つけて読んでいくという狭いことばかりしているから、時制でいうところの過去にばかりいるから、そう幻滅を覚えるのだろう。文学の市場における現代の目まぐるしい流れに視線を向ければ焼けて当然である。
 市場経済の商品化される文学もそうだが、あとはなんといっても権威が恐ろしいのだ。先にあげた「文学賞殺人事件」にしても、芥川賞にしても、セクハラで一年なくなったノーベル文学賞にしても、そこには、権威が受容されている。作品の外側から力が働いて作品が持ち上げられる。賞にとらわれて選考委員に恐ろしく長い手紙を書いた者もいた。

 私は以前、書いたものがある友人の昔の出来事にうまく馴染んだというか、どこかで接近してしまい、友人の心を打ったことがあった。彼女にとっては辛い経験だっただろうし、それを掘り返してしまったようなことを書いてしまってある気がするのだが、その時、彼女には何か、批判的なことではなく、何かよかったという意味合いのことを私に伝えてくれたと記憶している。あれから必ず私の書いたものを読んでくれている(らしい)のだが、まだ自分の書いたことが後になって自分の身に起きるのはともかくとして、聞いてもいない他人の出来事に自分の書いたものが偶然リンクしていくということは、書くことにおいても、読むことに身を置く側としても、双方の行為になにか不思議な気持ちにさせる、それらにしかできないことなのだろう。私は書いたことが後々追いかけてくるということがたびたびあった。年下の子と仲良くなって車でどこか行ったり、イチャイチャしたりするもあとで急に疎遠になるような小説を書いたが、あとでほとんど同じことが起きた。まあありがちなことばかりきっと書いているからそういうことが起きているのだろうけど、どこか私の書いたものーフィクションでも、今こうやって書いている雑文にでも問わないがーが誰かのどこかと接触する可能性を信じて、書くしかないのかもしれない。
 マルケンは継続する「持久力」を訴えている。

小説を書くうえで大切なのは、集中力のほか持久力です。持久力とは、連日書き続けるという、自己管理能力のほかなりません。

この『読むことに時間の流れる、書くことに時間の流れる____小説論についてと乗代雄介「旅する練習」で考えたこととか』は、一月の半ばに始めて、だらだら書いてはやめてを繰り返した雑文です。


https://twitter.com/atk27kan/status/1366250949757427714?s=21

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