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週間手帖 九頁目

2022.03.01

垂れ流す甘い血と錆びた舌。赤い嘘で塗り潰した夜もやがて白んで、あなたも私も知らん振り。あの日の奇妙な約束に絆され、おぞましい呪縛となって傷を残した。太陽に永遠が溶けた頃、またここで会いましょう、なんて約束もきっと日の目に当たることなく、くたびれて土に還るさ。

2022.03.02

可憐なあの子にありったけの喜びと悲しみを注ぎ込み、井戸の深くに突き落とす。大海を知らない蛙のように、ただひとつを知り、ひとつを求めればいい。何重にも塗り重ねる真っ白な背徳感と、黒く濁った快楽。純粋無垢には一生敵わない気がするから、今日もまた君ひどいことばかり繰り返しては、浄化してくれと懇願する。

2022.03.03

窓から入るゆるやかな風が、あの人の美しさをそっと撫でてゆく。視線は相変わらず手持ちの小説に注がれたまま、眼鏡にかかった髪の毛をそっと払う。その数秒間はすべての音が聞こえなくなって、代わりにどくどくと脈拍のこもった音が遠くで響いているようだった。どうかこのどうしようもない音色が、聴こえてしまわないように。思いとは裏腹に、色のない視線はゆっくりとこちらを捉える。交わってはいけない、と第六感が叫んだ。唇が薄く開いた瞬間に廊下に飛び出て、行く当てもなく目いっぱい走った。神様っていじわるよ、あの人にしか見えない景色があるんだもの。神様っていたずらよ、触れてはいけないものに触れてしまいそうなんだもの。それはとてもとても愚かなことだよ。

2022.03.04

所詮は妄想に過ぎないのだと、君に言いたい。こちらは性質上、喧騒が苦手で友人は少数派。読書を好み、季節の変化に敏感で、そのくせに身体は傲慢だから口にするものは一際選んで。気が付けば身体も心も痩せ細っていっただけ。それを勝手に美化して崇められて、妄想に妄想を重ねて生きている阿呆が君だ。追いかける前にすでに逃げられて、ほんの少し欲を出せばこっぴどく線を引かれた。すでに答えはわかっているのに、何度も同じ問題を解こうとしてはわからないと頭を抱える我儘な子どもみたい。でも、あなただってもう知っているんでしょう?どうせぼくたちに与えられた時間は限られているのだから、愛し愛される人生を受け入れてみてはどうだろう。眼鏡と小説という盾を剥ぎ、すうっと一息。その愚かな空想を打ち砕いてみたくて、まだ近くで響く足音を追いかけた。

2022.03.05

青空の下で交わした頼りない約束も、ぬるいビールを飲み干せば代えがたい宝物になった。大きな荷物に詰め込んだ人生と秘密。涙の理由に辿りつくために何十年と時間をかけてきたけど、ようやく手に入れることができそうだ。硝子の破片を払いのけて、傷ついた椅子に腰をかける。そうだ、ここで少し休んでいこう。帰る場所がなくても、行くべき場所は見つけられたから。

2022.03.06

ガラス玉のような透明で丸い瞳に、嘘を重ねた私では到底太刀打ちができない。そんなこと百も承知だから、身の潔白を貫き、愛を深めて深めて、ここまできたの。手が届かないなんて、思ったことがない。アガサ・クリスティーに学ぶ毒。ふしだらな幽霊探し。神様不在の箱庭で、英雄を引きずりだすまで命を燃やして。すべては仰せのままに。


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