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人間はプリンのようなものだ

「万物は水」であったり「上善如水」であったり、昔の賢人の言葉には「水」がチラホラ出てきたりする。
(私も何かと水とか魚とかに喩えがちなので、ちょっと嬉しかったりする)

前に人は環境で変わるってやつでも書いたけれど、やっぱり人間って、水のような液体のようなものなのかもしれないと思った。
物体としての体は器として確かにあるけれど、考え方とか生き方とか、周りの環境で如何様にも形を変えるから。

いや、水ほどサラサラはしていないか。プリンとかスライムとかその辺。
そのくらいのとろみ(?)はあるかもしれない。一応そのままでも形を保てるけど、型によって形が変わる感じのイメージ。

勿論、元来持っている性質もあるけれど、それを生かしたり綺麗な形にするのは、やっぱり周りの環境や刺激(≒型)だったりするのかなあと。

これも前に書いたけれど、私たちのように社会で生きづらめの人は、元の材質があまり柔軟性が無いので、そもそもの型を間違えると、えらいこっちゃになってしまう可能性が高い。

というか、学校とか会社とか、所謂「一般的な社会のレール」ではいつも同じような型を使い回しているように感じる。そして、それに上手く合わせられない私たちは、もう自分たちは社会に適合できないんだと絶望して落ち込む。

でも世界って広いんだ。それは沢山ある中の一つの型でしかない。もっとハート型とか星型とかユニークな型があったっていいと思う。ハートのプリンとか可愛いじゃないか。

色々な人の生き方を見れるようになってきた現代だけど、それでもやっぱり社会にはプレーンな型しか流通してないのが現実で。

だから、自分にあった型を自力で探さなきゃいけない。それがしんどい。
勿論、プレーンな型が自分に合っているなら、そのままでいいと思う。探す手間が省けてラッキーだ。そのままその道を極めたらいいと思う。

じゃあ、型が合わなかった人々はどうしたらいいのかと言えば、自己理解と自分に合った環境の探究なのかなと思う。

自分はどんな材料で出来ているのかを調べる。卵なのか小麦粉なのか、はたまたお米なのか。それを調べるためにみんなMBTIとか性格診断してるんじゃないかなと。

そして、原材料をちゃんと把握した上で、それを上手く生かせるような型を見つけ出す、もしくは作り出す。プリンみたいにカップに注いだらいいのか、クッキーみたいに型抜きしたらいいのか、おにぎりにしたらいいのか。

自分に合う型は、もしかしたらすぐ見つかるかもしれないし、一生かけても見つからないかもしれない。
生きている間にもまた、主成分が変わってくるだろうし、合う型も変わってくるだろう。

そのトライアンドエラーなのかなと。それが人生なんじゃないかと思う。

自分の納得のいくプリンを作りたいなあ。


梨女(@xxnashimexx)


ありがとうございます。 ちょっといいご飯を食べたいと思います。