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【つの版】度量衡比較・貨幣03

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 古代の中近東では金銀による秤量貨幣が発明され、そのシステムはペルシア帝国やギリシア人の征服活動と交易路によって世界各地に広まりました。今回はギリシアから西、カルタゴやローマの貨幣について見ていきます。

◆ハンニバル◆

◆スキピオ◆


迦太貨幣

 カルタゴは、紀元前9世紀末頃フェニキア人によって現チュニジアに建設された植民都市で、フェニキア語ではカルト・ハダシュト(新しい都市)といいます。ギリシア人は訛ってカルケドンと呼び、ラテン語でさらに訛ってカルタゴとなります。フェニキア人は現レバノンやシリア、キプロスの沿岸部に居住していたセム諸語を話す人々で、古来地中海に帆船で進出して盛んに交易を行い、各地に交易の拠点となる植民都市を築きました。

 特に地中海の真ん中のチュニジアは、イベリア半島とフェニキア本土を結ぶ重要な地であり、かつ豊かで広大な農地を持つことから本国より繁栄しました。その版図はリビア・シチリア・サルデーニャ・コルシカ・アルジェリア・モロッコ・バレアレス諸島・フランス南部やイベリア半島に及び、西地中海および大西洋の交易を独占していました。

 ギリシア人はこれに対抗してシチリア西部や南イタリアに植民都市を建設し、領土や交易路を巡って激しく対立しました。特にシチリアを巡る戦争は紀元前580年頃から300年以上も続き、両者は互いに交流して文化を受け入れて行きます。カルタゴではフェニキアの度量衡に基づいて秤量貨幣シェケルが用いられていましたが、前410年頃からギリシア風の銀貨や金貨が発行され、傭兵への支払いに用いられました。

 前409年に始まった第二次シチリア戦争では、カルタゴがテトラドラクマ(17.26g)銀貨を鋳造しています。表面には馬の横顔やナツメヤシの木、ペガサスやフェニキア文字が刻まれ、また7.2gのシェケル/ディドラクマ金貨も発行されています。これらはシチリアのカルタゴ側の都市で発行されましたが、前4世紀初めに戦争が終結すると発行されなくなりました。

 次いで前350年頃から新たな銀貨や金貨、エレクトロン貨や青銅貨が発行され始めます。これは宿敵シラクサ(シュラクサイ)で内乱が起き、カルタゴのシチリアでの活動が活発化したためです。デザインや重量、金銀の含有量は様々ですが、金銀の交換レートはおおよそ1:12でした。貨幣価値も当時のギリシア都市とそう変わらなかったでしょう。

羅馬勃興

 前270年にはローマがイタリア半島の大部分を統一し、まもなくシチリアを巡ってカルタゴとの戦い(ポエニ戦争)に突入します。紀元前8世紀中頃にイタリア中部に建国された都市国家ローマは、当初は近隣のラテン人やサビニ人の盟主に過ぎませんでしたが、エトルリア人やサムニウム人、南イタリアのギリシア人諸国を次第に征服し、イタリアの覇者となりました。初期は王政でしたが、前6世紀末に元老院と市民による共和政に移行します。

 ラテン語では貨幣をpecuniaといい、これは「羊」を意味するpecusにさかのぼりますから、当初は羊が支払いに当てられていたようです。建国者ロムルスもダビデのような羊飼いでした。次に塩(sal)や青銅の塊aes rude)が貨幣とされ、前者は俸給を意味する語salarium、後者はアス(aes)という青銅の貨幣となっていきます。

 前450年頃には、Aes signatum(刻印された青銅)という青銅のインゴットが流通していました。重量は600g-2.5kgと様々で、持ち運びには不便でした。南イタリアのギリシア人諸国やエトルリア、カルタゴでは金銀の貨幣が流通しており、ローマでもそれらを輸入して取引に使っていたようですが、農耕牧畜が主産業のローマでは物々交換が主流でした。

 この頃、ローマはアテナイとスパルタに使節を派遣し、ペリクレスの統治下で黄金時代を迎えていたアテナイの制度を学ばせました。彼らは帰国すると、慣習法やギリシアの制度を参考にして成文法を制定し、前451-前449年に十二表法として発布しました。その内容は散逸しましたが、1リブラ・ポンドゥス(327g)の青銅インゴット(アス)を単位として罰金が定められ、自由市民を侮辱したら25アス、手足を殴って不自由にしたら300アス(奴隷なら半分)などと規定があったそうです。

 当時の物価が不明なのでどれほどの価値か定かでありませんが、物理的にも軽くはありません。庶民は物々交換や、アスを分割して秤量貨幣として用いていたようです。前280年にはベス(2/3アス)、セミス(1/2アス)、クィンクンクス(5/12アス)、トリエンス(1/3アス)、クアドランス(1/4アス)、セクスタンス(1/6アス)、ウンキア(1/12アス)が用いられ、アスを2倍してデュ・ポンディウス(「倍の重さ」)、それに1/2アスを加えたセステルティウスなどもあったといいます。人が殴り殺せる貨幣ですね。

 紀元前4世紀前半、都市ローマがケルト人に占領された際、立ち退き料として黄金1000リブラ・ポンドゥス(327kg)が支払われたと伝えられます。ペルシア帝国では8.1gのダレイコス金貨が兵士の月給相当ですから、327kgの黄金は兵士4万370人の月給に相当し、ダレイコス1枚が30万円とすれば120億円になります。当時のローマの出せるギリギリの金額でしょう。

 前300年頃には、アッピア街道の建設費用や軍事費の支払い用として、ローマ国内でもギリシア風の銀貨が少量ながら鋳造され始めます。主に南イタリアで発行され、表面には馬や狼、軍神マルスや英雄ヘラクレスの横顔が鋳込まれています。重量は7.9-6.6g、平均7.3gのディドラクマで、銀1g3000円として2.2万円弱となり、武装した兵士の日給に相当します。

 伝説によれば、前289年頃ローマに造幣局が設置され、金貨・銀貨・銅貨を発行するため三人の役人が選出されました。造幣局はカピトリヌスの丘のユノ・モネータ(忠告するユノ)神殿の傍らに置かれたため、これが訛って英語mint(造幣局)、money(貨幣)の語源になったといいます。

布匿戦争

 前262年、ローマはカルタゴとの戦争に突入します。シラクサはこれに先立ってローマと対立しますがすぐに同盟し、賠償金として銀100タラントン(1タラントン=6000ドラクマ、1ドラクマ=1.26万円として100タラントンは75.6億円)を送って戦争に引きずり込んでいます。西地中海を南北に二分したこの大戦争は20年も続き、前241年にはローマ・ギリシア連合がなんとか勝利をおさめ、シチリアからカルタゴ勢力を追い払いました。

 ローマはカルタゴに対して即時賠償金1000タラントン(756億円)を課し、さらに10年分割で2200タラントン(1663.2億円)を支払うよう要求しました。年間220タラントン(166.32億円)になり、支払い期間中は互いに休戦となります。ローマにとっては大金でしたが、カルタゴは北アフリカにおける農地経営での年間利潤だけで1.2万タラントン(9072億円)もあり、海外貿易も同額とすれば合計2.4万タラントン(1.81兆円)です。税金が1/10としても歳入は2400タラントン(1814.4億円)に達し、ペルシア帝国はさておき最盛期のアテナイをも凌ぎます。

 そのため大した負担ではなかったものの、長年権益を持っていたシチリアを奪われたのは厳しく、リビアでは傭兵の反乱も起き、ローマはどさくさに紛れてカルタゴからサルデーニャとコルシカを奪い取りました。カルタゴはこれに対してイベリア半島/ヒスパニアの開発に力を入れ、前229年にはヒスパニアだけで年4000タラントン(3024億円)もの収益があがるほどになります。これは第一次ポエニ戦争で活躍した軍事貴族バルカ家の独占事業で、ヒスパニアはバルカ家の王国のようになり、西方からローマを脅かしました。

 戦勝国ローマでは経済が活性化し、貨幣流通も盛んになりました。アスの重さは前270年には327g=12ウンキア(1ウンキアは27.25g)から10ウンキア=272.5gとなり、前225年には5ウンキア(136.25g)まで下がりました。ウンキアとは1/12という意味なので混乱させてくれます。

 前219年、バルカ家の当主ハンニバルはヒスパニアにおけるローマの同盟国サグントゥムを攻撃し、第二次ポエニ戦争が勃発します。ハンニバルは弟らにヒスパニアを任せると、大軍を率いてエブロ川とピレネー山脈を越え、ガリア(南フランス)からアルプス山脈を越えて北イタリアに侵攻しました。ローマは迎撃しますが相次いで打ち破られ、カンナエの戦いで大敗北を喫します。ハンニバルはそのまま南イタリアに居座ってギリシア系の都市に反乱をそそのかし、カプアとシラクサがこれに呼応しました。

 しかしカルタゴ本国はこれに乗じてローマを攻撃せず、ローマは辛抱強く戦ってハンニバルを追い詰め、前211年にはカプアとシラクサを奪還しました。そしてこの年、ローマはデナリウス銀貨を発行します。

 当初の重量は4.5g、前206年からは4.2gで、ギリシアの銀貨ドラクマにほぼ相当します。価値も同じとすれば一般労働者の日給にあたります。武装した兵士の日給の半分ですが、ローマ軍は傭兵を使わず市民兵と同盟国の兵士で構成されており、カネで税を支払うのではなく戦争に参加することが一人前の市民の権利であり義務でした。ハンニバルはともかく、通常のカルタゴ軍やシラクサなど南伊諸国の軍勢とは戦意が違います。

 この頃、アスの重さは5ウンキアから1ウンキア(27.25g)にまで縮み、ちょっと大きめの銅貨になりました。そして1デナリウスの価値は10アスに相当する、と定められます。denariusというラテン語はdecem(10)に由来しますから、1アスの10倍という意味なのです。とすると、1デナリウスが現代日本の1.26万円に相当するとして、1アスは1260円にあたります。

 補助通貨として、半デナリウス(2.1g=6300円)のキナリウス銀貨、1/4デナリウス(1.05g=3150円)のセステルティウス銀貨も発行されます。他に記念コインとして3.4gのヴィクトリアトゥス銀貨、3種類の金貨(20・40・60アス=2・4・6デナリウス相当)も発行されています。

 前210年からはローマの将軍スキピオがヒスパニアへ遠征し、前206年までに征服します。東の強国マケドニアはハンニバルとの同盟を打ち切り、スキピオは前204年にカルタゴ本土へ攻め込みます。ハンニバルはカルタゴ政府に呼び戻され、前202年にスキピオとザマで決戦を行いますが、ハンニバル自身の戦術を駆使したスキピオに大敗を喫しました。まもなくカルタゴはローマと講和条約を締結し、第二次ポエニ戦争は終結します。

 敗戦国カルタゴはローマに征服されず、対等の立場で友好同盟を締結し、自治権を奪われることもなく、駐留軍も置かれませんでした。しかしシチリア・サルデーニャ・コルシカ・ヒスパニアなどの海外領土は放棄させられ、地続きの同盟国ヌミディア(アルジェリア)も現地の王マシニッサのもとでの独立を承認させられます。またカルタゴにいるローマ人の捕虜は全員返還させられ、ローマの許可なく戦争や他国との同盟を行わないこと、10隻を除く全ての軍船と戦象を放棄すること(新たな建造や育成も禁止)、カルタゴの青年100名を人質としてローマに差し出すこと(友好的な人材となるよう教育されます)などが定められました。敗戦国ゆえ仕方ありません。

 賠償金の総額は1万タラントン(7560億円)ですが、休戦期間制定のため50年間の分割払いとされ、年間200タラントン(151.2億円)で済みます。カルタゴは北アフリカの農地経営の利潤だけで年間1.2万タラントンもありますから、ローマからすれば多大な犠牲を支払ったにしては少ない額です。とはいえ、戦勝国ローマにはそれ以上の富と栄光がもたらされました。

迦太滅亡

 カルタゴに代わる西地中海の覇者となったローマ共和国は、東のマケドニアやエジプト、シリアなどヘレニズム諸国からも脅威とみなされました。またペルガモンやロドス島などの中小国はローマと同盟して他国からの侵略を防ごうとしたため、前200年には早くもローマとマケドニアがこれらの国を巡って戦争を開始します。戦争で鍛え上げられていたローマ軍はマケドニア軍を容易く破り、ギリシア南部の諸都市をマケドニアの支配から解放すると宣言します。ギリシア人と早くから接触していたローマではギリシア文化が流行していましたが、ついにギリシア本土もローマに服属したのです。

 ハンニバルは国政改革を行ってカルタゴを再建したものの、ローマや国内の反対派から睨まれ、セレウコス朝シリアへ亡命します。前192年にシリアがギリシア・小アジア諸国へ侵攻すると、ローマはこれを迎え撃って散々に打ち破り、前188年に講和条約を締結させました。その賠償金総額は1.5万タラントン(1兆円余)にも及び、シリアの軍船や戦象の所有制限、領土の割譲なども定められます。敗戦国シリアでは各地で反乱が勃発し、大王アンティオコスはスサの神殿からカネを掠奪しようとしますが暗殺されました。

 ハンニバルはローマの追手を逃れてクレタ島など各地を転々とし、前182年頃に小アジアのビテュニアで自害しました。好敵手のスキピオも手柄を立てすぎて危険視され、政敵に弾劾されて失脚し、同じ頃に病没しています。

 地中海の覇者となったローマ共和国には莫大な富が流れ込みました。第三次マケドニア戦争が終結した紀元前168年の歳入は5000万セステルティウス=1250万デナリウス=2083タラントン(1575億円)で、かつてのアテナイに匹敵します。このうちヒスパニアの鉱山からの収入は2400万セステルティウス=600万デナリウスと半分を占め、支出のうち軍事費が2000万セステルティウス=500万デナリウスと半分近くを占めます。

 かつてのカルタゴに比べれば財政規模は小さいですが、これはローマ国内に多数の同盟諸国や自治政府が存在し、一律に税金を取るわけにもいかなかったためです。人口の一割程度を占めるローマ市民権保持者は金銭での納税を免除され、武装して戦争に加わることが権利かつ義務でした。

 ただしシチリアやサルデーニャ・コルシカ・ヒスパニアの旧カルタゴ領には属州(プロウィンキア)が設置され、ローマ市民権を持たぬ属州民は収入の1/10を属州税として納入していました。当時の税率としては普通ですが、徴税請負人という中間業者が属州総督と結託して取り立てを担当したため、マージンをピンハネされて評判が悪かったといいます。

 前201年から50年後の前151年、カルタゴは隣国ヌミディアとの間で領土を争い、ローマとの条約を破ってヌミディアを攻撃しますが敗北します。ローマは条約違反であるとして前149年にカルタゴへ軍を派遣します。カルタゴは将軍ハスドルバルの指揮のもと3年間持ちこたえますが前146年に陥落し、都市は破壊され(塩が撒かれたというのは後世の伝説ですが)、廃墟のままに捨て置かれます。カルタゴは滅亡して属州アフリカとされ、第二の都市ウティカが州都とされました。

 同年には第四次マケドニア戦争で征服されたマケドニアも属州となり、これらの地域から莫大な戦利品と属州税、奴隷がなだれ込みます。奴隷は安価な労働力として大規模農園で酷使され、ローマの富裕層はますます富みましたが、イタリア本土の農家は安く大量供給される輸入作物に対抗できず、農地を奪われて農奴や奴隷に転落しました。社会不安は各地での反乱を招き、共和政ローマは「内乱の一世紀」に突入することになります。

◆S.P.Q.R.◆

◆Legio Aeterna Victrix◆

【続く】

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