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【つの版】度量衡比較・貨幣131

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1718年、英国はバハマ諸島を根城とするカリブ海の海賊を鎮圧するため、ウッズ・ロジャーズをバハマ総督に任じて派遣しました。この遠征により12年間存続した「海賊共和国」は滅亡し、海賊の黄金時代は終わりを迎ます。

◆海◆

◆賊◆


総督着任

 これに先立つ1717年9月5日、英国王ジョージ1世は「1年以内に英国の植民地総督に投降して自首すれば、1718年1月5日以前に犯した全ての海賊行為に関して赦免する」という勅令を布告しており、海賊たちには動揺が広がっていました。ホーニゴールド、ジェニングス、ジョサイア・バージェスら有力な海賊たちは恩赦を支持しますが、ジェニングスの部下チャールズ・ヴェインらは激しく拒否します。彼はスチュアート朝のジェームズ2世およびその子孫を正統な英国王とする「ジャコバイト」で、ウィリアム3世以後の英国王を認めておらず、従って恩赦を受ける気もなかったのです。

 この頃、欧州ではスペイン国王フェリペ5世が再び戦争を引き起こしていました。彼はフランス国王ルイ14世の孫にあたり、苦闘の末にスペインの王位を継承したものの、南ネーデルラント、ミラノ、ナポリ、サルデーニャ、シチリアなどを失い、領土回復を狙っていたのです。そしてオーストリアがオスマン帝国との戦争に注力している隙を突いて、1717年8月にはサルデーニャへ、翌年6月にはシチリアへ出兵しました。またフェリペはフランスに対する王位継承権を再び主張し、英仏同盟への牽制のためにジャコバイトとスチュアート家、スウェーデンへの支援を行っています。もしもスペインが味方につくのであれば、ヴェインの反抗にも勝算はあるかも知れません。

 英国内ではお尋ね者のジャコバイトでしたが、カリブ海など海外の植民地には彼らが流れ込んでおり、ヴェインは彼らを味方につけて英国政府に反抗しようとします。ジェニングスは付き合いきれずにバミューダ諸島の植民地総督に降伏して足抜けしますが、ホーニゴールドはナッソーにとどまってヴェイン派を牽制しつつ、ジャマイカに使者を派遣して援軍を要請しました。ヴェインらは恩赦を受け入れた海賊たちに対して襲撃を繰り返し、ジャコバイトの援軍を待ち望んでいましたが、待てど暮らせど到着しませんでした。

 1718年7月、39歳のロジャーズは「海賊共和国」の首都ナッソーに到着します。ホーニゴールドらは彼を歓迎して指揮下に入りますが、ヴェインはナッソーから逃げ出して北上し、8月末には英国領サウスカロライナ植民地の町チャールズタウン(現チャールストン)を襲撃しました。

 この頃ヴェインが出会った海賊が「黒髭」ことエドワード・ティーチでした。彼はホーニゴールドの手下として海賊稼業に励み、1718年5月にはチャールズタウンを襲撃して掠奪を行いましたが、翌月ノースカロライナの総督に申し出て特別に恩赦され、見返りに掠奪品の一部を引き渡していました。噂を聞いたヴェインはティーチのもとを訪ね、友好関係を結んでいます。

 ヴェインとティーチが手を結んだとの情報は広く伝わり、植民地総督たちを震え上がらせます。ナッソーを掌握したバハマ総督ロジャーズのもとにもヴェインとティーチから脅迫の手紙が届きました。彼が恩赦で指揮下に置いた海賊たちもじきに海賊稼業を再開し、欧州ではスペインが英国と開戦したとの情報も入ります。北のヴェイン、南のスペインに挟み撃ちにされれば、ナッソーはたちまち滅ぼされかねません。

 幸いヴェインはティーチと別れ、バハマ諸島やジャマイカを襲撃し始めます。ティーチは11月にバージニア植民地総督による討伐を受けて死亡し、懸賞金400ポンド(4000万円)と掠奪品2000ポンド(2億円)余りは討伐作戦の費用にあてられました。ヴェインも命運尽きて翌年逮捕され、その翌年に処刑されます。1720年2月に起きたスペイン艦隊によるナッソー攻撃も小規模なものにとどまり、英国とスペインとの戦争も終結しました。やりにくくなった海賊たちの一部はアフリカなどへ去っていきます。

 しかしロジャーズの苦労は終わりません。海賊稼業で成り立っていたバハマ植民地の経営は、海賊も私掠もできなくなればたちまち行き詰まります。ホーニゴールドも1719年に事故死し、英国政府や商人たちも財政援助をしてくれず、途方に暮れたロジャーズは1721年3月にナッソーを去りました。ところが英国に到着すると、彼の総督の地位は剥奪されて新しい総督が任命されており、バハマ植民地経営のための法人は精算されて解散していました。このためナッソーで契約された債務は全てロジャーズ個人に降りかかり、彼は債務を返さなかったとして債務刑務所にぶち込まれてしまいます。

 とはいえ借金返済のあてもなく、幸い債権者の申し出で釈放されます。困窮した彼を救ったのは、彼と渡り合った海賊たちの物語でした。ロジャーズの情報をもとに編集され、1724年に出版された『悪名高き海賊たちの強奪と殺人の歴史』、通称『海賊史』は大ベストセラーとなります。一躍英雄となったロジャーズは名誉回復されて年金を受給され、1728年にはバハマ総督に返り咲きますが、1732年に53歳で病没しました。彼が遺した『海賊史』は、現代に到るまで海賊を題材にした創作物のイメージの源泉となっています。

海賊経営

 海賊たちは、国家の法律に従わないという点では「無法者」でしたが、共同体として一致団結して目的を果たし、公平に分捕り品を分配するために、古くから独自の(code)を持っていました。掟の細則は時代や地域、船長によって異なりますが、罰則や分配、負傷者に対する補償など、共通点も多く見られ、当時の一般的な船舶での合意から派生したものでした。

 乗組員は紙に書かれた掟に署名捺印し、忠誠や宣誓を行って正式に仲間となり、役職決定や問題解決のための投票権、武装権、掠奪の分け前を得る権利などを与えられました。宣誓式には主に聖書が用いられましたが、ない場合は斧や刀、銃や大砲、頭蓋骨などが用いられたといいます。海賊に拿捕された船の乗組員もしばしば半強制的に仲間入りさせられ、船大工や航海士などの専門職は特に重宝されました。

 17世紀後半のバッカニア、ヘンリー・モーガンのものと思われる掟では、「獲物なければ報酬なし(No prey, no pay)」と規定しています。拿捕した船の戦利品を勝手にくすねることは厳格に禁止され、もし発覚すれば即座に追放(近くの無人島に置き去り)されます。盗みや賭博、喧嘩などもご法度で、分け前が減らされたり追放されたり、場合によっては殺されました。

 戦利品の分配は、船長が一般船員の5-6倍、航海長は2倍で、上級船員は働きぶりに応じ、船員には残りを等分、少年は一般船員の1/2とされます。18世紀前半には船長の分け前が1.5-2倍に減り、航海長・船大工・甲板長・掌砲長・船医・操舵長の取り分は1.25-1.5倍、上級船員は1.25倍となりました。また個々に分配された戦利品の金額が目標額(1000ポンド≒1億円など)に達するまで一味を抜けることは許されないとする掟もあります。

 船の使用料、修理や手入れ、大工の手間賃などの必要経費は船長への報酬として別に支払われ、「ピース・オブ・エイト(スペインドル)」銀貨150-200枚とされます(ドル銀貨1枚≒1/4ポンド≒2.5万円として375万円-500万円)。船医と薬箱に対しては銀貨250枚(625万円)が支給されました。

 奴隷1人は銀貨100枚(250万円)で換算され、船員が指や片目を失えば銀貨100枚か奴隷1人、手足を失えば銀貨400-600枚(1000万-1500万円)か同額相当の奴隷が補償金として支払われます。左足が最も安く、次いで右足と左腕が銀貨500枚か奴隷5人で、右腕は銀貨600枚か奴隷6人とされます。また手足1本で銀貨800枚、指の関節1つで銀貨400枚とする船もあります。

 海賊にかけられた懸賞金としては、「黒髭」エドワード・ティーチに対する100-400ポンド(1000万-4000万円)が知られています。平船員は10ポンド(100万円)、下級航海士は15ポンド、上級船員は20ポンド、船長は40ポンドでした。彼らが出した被害や制圧の困難さとは釣り合わない気もしますが、積荷や財宝を奪還すれば相応の実入りは見込めたでしょう。しかし植民地総督は「掠奪品を無断でくすねた」として、ティーチを倒した部隊への懸賞金の支払いを渋っています。

◆悪◆

◆党◆

【続く】

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