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『胡漢英雄記』より「胡雛長嘯」#1

【承前】

「ルィイイウィ……イイイイ……ウィイイィ……」

バイの喉歌が、車中の貴人の耳に届く。
「停めよ」
門前で馬車が止まり、貴人が外を見る。年の頃三十路。神情は明秀、風姿は詳雅。だが肌は病的に白く、手に持つ払塵の白玉の柄と等しい。五石散を服用し、白粉を塗っているのだ。澱んだ目の下には隠しきれぬ隈。

「嘯いておるのは誰かな。連れて参れ」

命令を受け、従者らが手に棒を携えて声のもとへ走る。「曲者!」「えびすめが!」バイは身をかわし、嘯きながら柱を登って門の上へ。貴人はますますおもしろがり、車をふらりと降りて門の上を見上げる。野次馬が増える。

「バイ! 貴人様に謝れ! わしらの首も飛ぶぞ!」
胡の老人が漢語で叫び、バイが顔を出して貴人を見下ろす。バイにも漢語は少しわかる。貴人は鷹揚に微笑む。
「そなたか」
「さようで、貴人様。ごめんなさい。僕の首は差し上げませんし、そこの胡らも勘弁してやって下さい」
「処罰はせぬ。喉歌のもとを見たかっただけだ。問う、何処の誰某かな」

バイは悪びれもせず、堂々と応える。
「僕はバイです。上党郡武郷北原、羯室の小帥、周曷朱の子。貴人様、お名前は」
「こ、こりゃ!」
「はははは。姓は王、字(あざな)は夷甫。琅邪の出で、平北将軍の子だ」

胡らは青褪め、野次馬も驚く。王夷甫、名を。竹林の七賢のひとり王戎の従弟。清談の第一人者。玄理と老荘を論じ、自らを子貢になぞらえ、一世龍門と讃えられる男。性は派手で気まま、言葉を弄ぶこと口中に雌黄を含むが如く、空論を好み俗事を疎かにする奇人。彼とバイとの問答が始まった。

「なぜ歌っておった?」「歌いたかったもので」
「わしに聴かせたかったのかな?」「そうかも知れず」
「年はいくつだ」「十四」
「そうか。わしが十四の頃と言えば、羊公に書状を送ったことが…」

バイと王衍は、漢語と胡語を交えつつ、スラスラと対話していく。市場で互いを値踏みするように。
「ところで貴人様、羊を買って下さい」「おお、買ってやろう。そなたの身柄も買い受けよう」「そちらは売り物じゃありませんので、売れません」「売らぬとあらば、この胡らを買うぞ」「僕のものじゃありません。胡らに聞いて下さい」「それもそうじゃ!」

王衍は従者に銭を出させ、胡らの売り物を皆買い取る。身柄は買い取らず、放免してやる。胡らはバイに促され、そそくさと逃げ去った。
「バイよ、そこから降りてこい。わしの馬車に乗って、語らおう!」
「ご遠慮いたします。おさらば!」
バイは乗らず、門の上からひらり。とんぼを切って飛び降り、ぺこりと一礼するや、風のように駆け去った。群衆は呆然とし、顔を見合わす。
王衍は鼻を鳴らし、真顔で呟く。

「あの胡のひよっこめは、ただ者でないぞ。いずれ天下の患いとなろう」

「おやじ、戻ったよ。酒だ」
「おう、早かったな。寄越せ。銭もだ」

并州武郷北原、羯室。バイの父・周曷朱は部落の小帥だが、性格が粗暴で、人望がない。貧乏なのに酒ばかり飲んでいる。それでも奴隷になるよりはマシだ。漢が魏に、魏が晋に代わって、漢人は…晋人は、胡人をますます見下すようになった。かつては漢が胡にへいこらしていたのに。

「皇帝が死んだってな」
「うん。新しい皇帝はばかだって、子供でも知ってる。乱世になるかもな」
「けっ。担いでるやつは、ばかか」
「知らない。でも、恨みや妬みは買ってるね。……あとおれさ、洛陽で晋の貴人と話したよ。ほんとさ。おれと一緒に行った連中に聞いてみなよ」
「ばかこけ。酒でも買ってこい。あいつらまだ帰って来てねえぞ」

どやされ、バイは家の外へ出る。鼻を鳴らす。おやじは覇気がない。
乱世になれば、のし上がれる。老人や講談師からよく聞いた。そうすりゃ、こんな貧乏暮らしともおさらばだ。

「ああ、盗んだ馬、いくらで売るかなァ……」

永熙元年。晋の都、洛陽。先帝司馬炎は「武」と諡され、廟号は世祖とされた。五月、峻陽陵に埋葬された。暗愚な皇帝司馬衷を傀儡として朝政を牛耳るのは、皇帝の外祖父である楊駿。彼は太尉・太子太傅・都督中外諸軍事・侍中・録尚書事に任じられ、全権を掌握した。

己が人望のないことを知る楊駿は、群臣の爵位を進め、租税を免除して人心を得ようと目論んだ。その策のひとつが――――

「匈奴北部都尉の劉淵を、建威将軍、五部大都督に任じ、漢光郷侯に封ず」

巨きな体、長い腕とひげ。威風周りを圧する男が、愚帝に拝礼した。

劉淵、あざなを元海。匈奴王族は漢家との長い通婚関係により、漢姓を劉とする。ふたつの皇室の混血者だ。楊駿や曹操、司馬懿とは、その血統の高貴さ、歴史の重さは比べようもない。姓も持たぬバイとは雲泥の差だ。

歳はじき四十。文武両道にすぐれ、膂力形貌は常にあらず。十三歳より任子として洛陽におり、貴顕より評価されたが、それゆえに危険視され、長く用いられることはなかった。やがて父・劉豹の跡を継いで匈奴左部都督(帥)に任じられ、故郷に帰るや刑法を明らかにし、姦邪を禁じ、施しと誠心で人を集めた。胡も漢人も、競って彼のもとに集った。

太康末年(289年)、劉淵は北部都尉に任命された。その翌年の、これだ。匈奴は五部に分かれるが、それを統率する五部大都督となった。長く不在の単于に代わり、劉淵が事実上の単于となったのである。

続く

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