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【つの版】度量衡比較・貨幣154

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1763年2月に七年戦争が終結し、欧州の国境線は原状回復されましたが、英国はフランスとスペインから多数の海外植民地を奪い取ることに成功しました。これにより大英帝国と産業革命の基礎が築かれたのです。

◆Do the◆

◆Evolution◆


原工業化

 いわゆる英国の産業革命/工業化(industrialization)は、18世紀中頃から19世紀にかけて起きた一連の産業の変革と、それに伴う社会構造の変革を言います。これらは一朝一夕に成し遂げられたものではなく、長い準備期間が存在しました。やがて工業化された社会システムは世界中に広まっていきますが、なぜ英国で最初にそれが起きたのでしょうか。

 産業革命/工業化に先行して、英国では「プロト工業化」と呼ばれる社会現象が起きています。中世後期以来、英国で外貨を稼ぐための輸出産業の代表格は牧羊による羊毛の生産と、それを加工した毛織物の生産でした。しかし技術的には大陸側のフランドルなど先進地域に劣っていたため、原料や半加工品をフランドルへ輸出して、完成品を輸入している状態でした。

 しかし16世紀に宗教改革が起き、英国が国教会を設立してローマ・カトリック教会から離脱すると、フランドルなどから多数のプロテスタントが英国に亡命しました。カトリック世界との貿易が困難になったため、英国はこれらの難民を集めて自国内での毛織物等の生産に従事させ、新たな市場を求めて非カトリック圏への進出を強めます。16世紀から17世紀にかけて、英国は清教徒革命を始めとする大混乱を乗り切り、名誉革命でオランダと連合することでプロテスタントの盟主としての地位を確立しました。さらには北米やカリブ海、インドなどへ植民地や交易拠点を築き、海外との貿易額も桁違いに跳ね上がっていきます(英国商業革命)。

 この頃に発展したのが「問屋制家内工業(putting-out system)」という方式です。これは都市の商人層やジェントリ/地主などの資本家(問屋)が地方の農民に織機や原料(羊毛)を前もって貸し出し(設備投資を行い)、彼らの家で副業として毛織物を作らせ、完成品を納入させるものです。ギルド(同業組合)の職人や、農村での自営的な小規模生産(家内制手工業)よりは生産性も高く、工程ごとの分業も可能ですが、生産者が各地に分散するため進捗管理が難しいといった難点があります。

 そこで発達したのが「工場制手工業」と呼ばれる方式です。各地に分散している多数の労働力を「工場」という専門の作業場に集約し、各工程を分業や協業させ、効率的に大規模な生産を行わせるのです。ただ用いる機械は従来と変わらないため「手工業(manu-facture)」のままですし、賃金労働者を多数集めるとなると相当の資本が必要なため、投じる資本が少なくて済む問屋制家内工業も小規模資本家層により継続して行われました。従来は工場制手工業が産業革命の前提とされましたが、プロト工業化説では問屋制家内工業による「農村の工業化」が重視されます。そしてここまでは英国に限らず、欧州やインド、チャイナ、日本でも行われていました。

綿布論争

 英国の産業を大きく変えたのは木綿でした。7000年以上前にインドとメキシコで別々に栽培が始まり、インドからイランや地中海世界、東アジアへ伝来しました。欧州においては「インドでは木から羊毛が生えるそうな」と珍しがられ、気候的に英国では生育しないため縁遠い存在でしたが、綿織物は舶来品として毛織物より人気が高く、高値で取引されていました。

 17世紀に英国東インド会社が成立し、インドやイランとの大規模な取引が始まると、香辛料や香料などに加え、安価な綿織物が大量に英国へ流れ込みました。特に南インドのカリカット(コーリコード)港から輸出された綿布は丈夫かつ実用的で、英語で訛ってキャリコ/キャラコ(calico)と呼ばれました。毛織物に比べ軽くて吸湿性が高く、肌触りも良く、染色も容易であったため、英国では瞬く間にキャラコが普及し、従来の主力産業であった毛織物業の立場が脅かされるほどでした。

 危機感を覚えた毛織物業者たちは、1690年頃からキャラコの輸入を禁止するように政治運動を始めました。これに対しキャラコの輸入で儲かっていた英国東インド会社側は激しく反論し、両者は互いの意見を印刷した多数の冊子をばら撒いて、国中を巻き込んだ論戦を行います。当初は毛織物業者の勢いが勝り、1700年には「キャラコ輸入禁止法」が成立しますが、これは染色したキャラコに限られていたため、無染色の白地キャラコの輸入が増大して染色業者が儲かっただけでした。

 キャラコの普及で毛織物・絹織物業者は没落して失業者が増えたため、業を煮やした彼らは1719年にはロンドンに押し寄せて抗議行動を行い、キャラコを着ている者から剥ぎ取るなどの実力行使に出ました。やむなく議会は「キャラコ使用禁止法」を制定しますが、「藍染めや混紡(麻や毛と混ぜたもの)のキャラコは例外」とするなど一定の配慮はされています。

 東インド会社は反発を恐れて綿布の輸入を控え始めたものの、国内に生じた需要は抑えきれませんでした。そこで「インドから原料の綿を輸入し、藍染や混紡でよいから英国内で綿織物を製造すべし」という動きが沸き起こります。幸い英国では毛織物業の発達により繊維製品の生産・流通ノウハウが蓄積され、ギルドも解体が進んでいたため、没落する毛織物業にしがみつくより、これを利用して綿織物産業に乗り換える方が得策と見えました。

飛杼発明

 この頃、イングランド北部のランカシャー地方にジョン・ケイという発明家が現れます。彼は1704年に自営農民(ヨーマン)のロバート・ケイの五男として生まれましたが、父は彼が生まれる前に死去しており、屋敷と土地は長男が相続していました。ジョンは14歳まで教育を受けた後、筬(おさ、機織りのための櫛状の道具)を製造する職人の下へ見習いに出されますが、1ヶ月後には家に帰り、自分で金属製の筬を設計して売り出します。彼は兄のウィリアムとともに国中を旅して筬を売り歩き、評判となりました。折しも英国では綿織物産業が流行していましたから、これに乗ったのです。

 1725年、21歳のジョンは故郷に戻り、父の遺言により40ポンド(400万円)の遺産を相続すると、アン・ホルトを妻に迎えて子を儲けます。また織機の改良に取り組み続け、1733年に「飛び杼(fly-shuttle)」を発明して特許を取得します。杼(ひ/シャトル)とは織物を織る際、経糸たていと緯糸よこいとを通すための道具で、糸を結びつけた木片を両手で左右に投げ、経糸の上を往復させるものです。ジョンはこれを改良し、杼の内部に糸を巻き付け、下に車輪(wheel)をつけ、片手で紐を引くだけで自動的に往復し、速く遠くまで飛ぶようにしました。これにより布を織る速度は従来の2倍か3倍になり、幅広の布を一人で織ることも可能になったのです。

 ところが、この画期的な発明は職人の反発を買います。素人でもたちまち幅広の布が大量生産できるとなれば、技術で食っている職人からすれば商売上がったりです。また布の生産速度に糸の生産速度が追いつかなければ、糸の価格が高騰して大変です。職人たちは国王にジョンの事業差し止めを要請し、ジョンは対応に追われることになりました。またジョンは飛び杼の特許料として1つにつき年間15シリング(1ポンド=20シリング≒10万円として1シリング≒5000円、15シリング≒7.5万円)を設定していましたが、業者の多くは結託して特許料を支払わなかったため、訴訟費用もかさみ破産に追い込まれます。飛び杼は英国で大いに普及し織物業を活性化させたものの、発明者のジョンには利益が還元されないばかりか、暴力で脅される始末でした。

 1747年、たまりかねたジョンはフランスに渡って政府と交渉し、3000リーヴルの一時金と2500リーヴルの年金を受け取る代わりに、飛び杼の技術をフランスに伝えました。1リーヴル≒銀5g≒5000円相当として、それぞれ1500万円と1250万円です。しかし飛び杼製造権の独占には失敗し、コピー商品が溢れて特許料も得られず、フランス政府と反目状態になります。その後もジョンは英国とフランスを往復して技術指導や機械修理などを行いますが、年金も減額されて金欠状態となり、1779年後半頃に75歳で死去したようです。

 ジョン・ケイは不遇のままに終わりましたが、飛び杼自体は英国でもフランスでも普及しました。しかし綿織物の原料となる綿は輸入品ですし、綿から糸を紡ぐ速度も飛び杼による織物生産速度に追いつかず、綿糸の価格が高騰していきます。これを解決するため、英国ではさらに紡績技術の革新が行われ、繊維産業の機械化・工業化を加速していくことになるのです。

◆工◆

◆業◆

【続く】

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