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【つの版】ウマと人類史:近代編12・壮大博奕

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 陸の帝国ロシアと、海の帝国である英国は、ナポレオン戦争終結後から宿命的な対決状態にありました。いわゆる「グレート・ゲーム」です。これは「東側」と「西側」の対立として19世紀・20世紀を経て現代にまで続いています。ここで欧州やオスマン帝国を離れ、さらに東へ向かうとしましょう。

◆烏◆

◆賊◆

真珠帝国

 まずはガージャール朝イランです。この国はカフカースをオスマン帝国およびロシアと争い続けていましたが、ロシアに敗れて繰り返し不平等条約を結ばされ、1828年には現在のジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンに相当する南カフカース地方を割譲するに至ります。またカスピ海におけるロシア艦隊の独占通行権、イラン在留ロシア人の領事裁判権(治外法権)を承認させられ、莫大な賠償金もむしり取られました。イラン皇帝ファトフ・アリー・シャーは1833年には皇太子アッバースにも先立たれ、皇太子の子モハンマドを後継者に指名すると、翌年失意のうちに世を去ります。

 イランの東にはドゥッラーニー帝国があります。この国は現在のアフガニスタンにとどまらず、パキスタン・インド・イランおよび中央アジアにも勢力を広げた国でした。建国者アフマド・シャーはパシュトゥーン人アブダーリー部族連合サドーザイ部族の出自で、イランの覇王ナーディル・シャーに仕えていましたが、ナーディルが1747年に暗殺されるとカンダハールで自立し、部族連合の名をドゥッラーニー(真珠の時代)と改めます。

 彼は周辺諸国の混乱に乗じて勢力を広げ、ムガル帝国に四度攻め込んで、1757年にはデリーを征服・掠奪しています。これによってムガル帝国はますます衰え、デリー周辺を細々と支配する程度の小国に転落しました。代わって台頭したのがデカン高原を拠点とするマラーター同盟ですが、これも1761年にデリー近郊でドゥッラーニー帝国と激突し、双方が大打撃を受けて衰退に向かいます。こうした混乱の隙を突いて、英国が勢力を伸ばしました。

英国会社

 16世紀末、ポルトガルやスペインに続いてオランダがインド洋・アジア貿易に参加すると、英国も遅れてこれに乗り出します。1600年に勅許により設立された「東インド会社(East India Company)」は、スペインやオランダと争いながら東へ販路を拡大しましたが、東南アジアや台湾・日本においてはオランダとの争いに敗れ、インド亜大陸以西の販路のみを確保します。

 英国はスペイン・オランダに対抗し、サファヴィー朝など地元勢力と提携して、着実に拠点を抑えて行きました。1615年にはホルムズ海峡を抑える港バンダレ・アッバースをポルトガルから奪い、1639年にはインド南東のチェンナイ(マドラス)に要塞を建設し、1661年にはポルトガルからインド西海岸のムンバイ(ボンベイ)を譲渡され、1690年にはベンガル地方のコルカタ(カルカッタ)にも要塞を築いて拠点とします。

 これらの拠点を経由してもたらされる東洋の産物は、英国に莫大な富をもたらしました。フランスは後から進出してきて英国とインドにおける販路を争いますが、英国は1717年にムガル皇帝から「ベンガルにおける関税免除の特権」を授かり、これを盾として権益を拡大していきます。ムガル帝国は皇帝アウラングゼーブ亡き後各地で太守らが自立し、英国とフランスの両東インド会社はこれらの諸国も巻き込んで、インドで何度も戦争を行いました。

 ドゥッラーニー帝国がデリーに攻め込んだのと同じ1757年、ベンガルではフランスが支援するベンガル太守と、英国東インド会社の軍勢が激突しました。英国はこれに勝利をおさめ、数年の間にフランスを事実上インドから追放し、弱体化したムガル皇帝からの勅許を盾として「ベンガル・ビハール・オリッサの租税徴収権」を獲得します。ここに英国東インド会社は、インドに広大な領土を持つ軍事政権のひとつとなったのです。

 しかし、拠点だけ確保して交易路を繋ぐよりも広大な領土を持つほうが負担は大きく、その統治は困難を極めました。英国は効率的な統治のために膨大で多種多様なインド人とその文化・宗教を研究し、彼らの上に少数の英国人がうまく乗っかって富を吸い上げる体制を築き上げていきます。そして現地人を雇い入れて軍隊を編成し、各地に割拠する政権と同盟を結び、あるいは保護国(藩王国)としていったのです。1803年、英国率いる諸侯連合軍はついにデリーに入城してムガル皇帝を庇護し、これを神輿として帝国諸侯を取りまとめ、強大なマラーター同盟と戦いました。

北印戦乱

 1772年にドゥッラーニー帝国/アフガニスタンの君主アフマド・シャーが逝去すると、その帝国は内乱により崩壊し始めます。アフガン人の侵攻に苦しめられたパンジャーブ地方のシク教(イスラムとヒンドゥーの融合した宗教)の信徒らはこれに乗じて反撃し、1801年に指導者ランジート・シングはラホールで王位を宣言、シク王国を建国します。

 シク王国はヨーロッパから軍事顧問を招き、教義と軍律で精強なる軍隊を鍛え上げ、軍事強国として覇を唱えます。英国は1809年に内紛を利用してシク王国と不可侵条約を締結し、アフガニスタンの君主シュジャー・シャーとも同盟を結んで北辺を安泰ならしめました。しかしシュジャーは同年に対立君主によって追放され、シク王国に亡命します。この時、彼は有名な宝石「クーへ・ヌール(コ・イ・ヌール)」を携えていました。

 シュジャーはシク王国の支援を受けてアフガニスタンの王位に復帰しようとし、コ・イ・ヌールをランジート・シングに引き渡します。ランジートはこれに乗じてアトック、ムルターン、カシミールなどを次々と征服し、アフガニスタンでは政変が起きてバーラクザイ部族のドースト・ムハンマドが政権を握ります。1973年まで続いたバーラクザイ朝の創始者です。

 1826年、彼はヘラートからカーブルに都を遷して国王(ハーン)に即位し、1835年にはシュジャーとシク王国の侵攻を撃退して、カリフが有していた「アミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長)」の称号を名乗り、アフガニスタン首長(アミール)国の君主となりました。イスラム教にとって異教徒であるシク王国や英国と戦うために、彼は聖戦を標榜したのです。

 これに対し、シク王ランジート・シングとシュジャー・シャーは、インドの覇者となった英国(東インド会社のインド総督)に支援を要請します。英国は中央アジアへの南下政策を強めるロシアに対抗するため、これに乗って対アフガン戦争を行いました。ランジートは1839年に病没し、英国はドースト・ムハンマドを捕虜としてシュジャーを王位につけたものの、頑強な反抗を受けて1842年にアフガンから這々の体で撤退、シュジャーも同年に暗殺されます。英国はこの両国を北方の緩衝国とするしかありませんでした。

 1840年、英国東インド会社のアーサー・コノリーは、「英国とロシアのアフガニスタンにおける情報戦は一進一退のチェスのようだ」とカンダハールの政務官ローリンソンに手紙を書き送っており、これを「グレート・ゲーム」と名付けました。では、ロシア側の様子を見てみましょう。

南下政策

 ロシアは、この頃盛んに中央アジア諸国への圧力を強めていました。カザフ・ハン国はロシアと清朝の両帝国と友好関係を保っていましたが、1781年にアブライ・ハーンが逝去すると分裂して弱体化し、ロシアにつけこまれます。ロシアは1771年にヴォルガ下流域のカルムイク・ハン国を取り潰すと、カザフの三つのジュズ(部族連合)のうち最も西に位置する小ジュズを服属させ、一部を割いて旧カルムイクの地(ウラル以西)に住まわせました。

 カザフとの国境地帯である南ウラル地域ではオレンブルク(オルスク)を拠点としてロシアの南下が進み、1773年にプガチョフの乱が起きるなど混乱もありましたが、カザフ諸部族は分断工作もあってロシアに従わざるを得なくなっていきます。1801年にはウラル以西に傀儡政権であるボケイ・オルダを設立し、1820年代前半には小ジュズと中ジュズのハンを服属させ、カザフ草原の大部分を手中におさめています。

 残るセミレチエ地方の大ジュズも形骸化しており、フェルガナ地方の新興国コーカンド・ハン国に圧迫されていました。この国はウズベク系ミング部族の首長(ビー)が建てた小国でしたが、ジュンガルを滅ぼした清朝を後ろ盾として勢力を拡大し、1800年にはタシュケントを征服して首長がハンを称します。非チンギス裔ですが、清朝の君主もハンやらハーンやら名乗っていますし、この頃にはチンギス統原理も薄れていたのでしょう。

 コーカンド・ハン国はさらにセミレチエ地方にも進出してカザフの大ジュズを服属させ、間接的に清朝の宗主権をこの地域に及ぼして、ロシアやブハラ、アフガニスタンとの緩衝国となります。清朝は警戒してコーカンド商人の新疆における活動を制限しますが、これに対してコーカンドは1826年に新疆へ侵攻、住民の反乱を煽って清朝の支配を揺るがします。驚いた清朝は1830年にコーカンドと講和し、新疆におけるコーカンド商人の自由を認めることとなりました。しかしコーカンドは1842年にブハラの侵攻を受けて一時占領され、衰退していくこととなります。

 ブハラでは1756年に政変が起きて非チンギス裔のマンギト部族が君主となり、1785年に君主号をハンからアミール(アミール・アル・ムウミニーン:信徒の長)に変更したため、これ以後をブハラ・アミール国(ブハラ首長国)と呼びます。西のヒヴァ・ハン国でも非チンギス裔の有力者(イナク)たちが傀儡ハンを担いで実権を握っていましたが、1804年にチンギス裔のハンを廃位し、非チンギス裔のままハン位につきます。

 両国はオアシス都市の定住民と遊牧民の連合体として存続し、北のカザフやロシア、南のイランやアフガンの圧力に耐えて独立を保ちました。しかし英国がアフガンやパンジャーブを抑えられず、ロシアがカザフを併呑しつつある以上、中央アジアでの優位は内陸帝国ロシアにあります。かくしてロシアはじわじわと南下を続け、北からアフガニスタンに迫ることとなります。

◆馬

◆戯

 インドから東には東南アジア諸国があり、清朝・日本などがあります。カザフスタンの東には清朝に服属した新疆やモンゴル高原、清朝の故郷であるマンチュリアが存在します。英国とロシアはこれらの地域にも進出し、南北に分かれてグレート・ゲームを繰り広げることとなるのです。

【続く】

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