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【つの版】ウマと人類史:中世編25・抜都西征

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1235年、モンゴル帝国第二代皇帝オゴデイ・カアンは、新たな首都カラコルムでクリルタイを開催し、南宋とキプチャク草原への大遠征開始を宣言しました。南宋への遠征ははかばかしい結果を得られませんでしたが、キプチャク草原への遠征は大成功を収めることになります。

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抜都西征

 南宋遠征の総司令官はオゴデイの三男クチュでしたが、キプチャク草原遠征の総司令官は、チンギス・カンの長男ジョチの次男バトゥでした。1225年に父に先立って早世したジョチには複数の妃と多数の子がおり、長男オルダはコンギラト部のサルタク・カトゥンを母としていましたが、バトゥの母オキ・フジンはジョチの母ボルテの兄アルチの娘(すなわちジョチの母の姪)にあたり家柄的には格上でした。そのためジョチ家の家督はオルダではなくバトゥが継ぐことになります。跡継ぎには母方の家の格も必要なのです。

 オルダは彼と領地を東西に分け、もともとジョチが父から授かった左翼/東部=イルティシュ川上流域を自分のものとし、右翼/西部をバトゥのものとしました。西には未だモンゴル帝国に従わない勢力が数多くおり、平定すれば領土が広がるわけです。こうしてバトゥは盛んに西方へ進出し、1229年と1232年にはヴォルガ・ブルガールを攻撃して、ウラル川上流部とバシコルトスタンを占領していました。1235年にハンガリーからヴォルガ・ブルガールへ訪れた修道士ユリアヌスは、付近に住むマジャル人と辛うじて会話が通じることを確認し、東方のタタールという恐ろしい民族の噂を聞いています。

 1236年2月、バトゥは西方遠征軍の総司令官に任命され、オゴデイの長男グユク、トゥルイの長男モンケ、かつてルーシへ遠征した老将スブタイと、ボオルチュの子ボロルタイらを副司令官として出発しました。他にジョチ家からオルダ、ベルケ、シバン、タングトが、チャガタイ家からブリとバイダルが、オゴデイ家からカダアン・オグルが、トゥルイ家からボチュクが参加し、チンギスの庶子コルゲンも加わっています。さらに帝国全土から王侯貴族の子弟が綺羅星の如く集まり、手柄を競うこととなりました。

 1236年冬、モンゴル軍はヴォルガ川に到達し、各地の征服に取り掛かります。スブタイは北上してヴォルガ・ブルガールの首都ビリャルを攻撃し、モンケ率いる左翼はカスピ海沿岸を進んでキプチャク(クマン)とアス(オセット)を攻め、1237年の初め頃までにこれらを制圧しました。次の目標は、かつてスブタイらが戦ったルーシです。

伐俄羅斯

 1237年晩秋、モンゴル軍はルーシ諸侯国の主要な町であるリャザンウラジーミル(モスクワの東の町々)へ使者を送り、服属して貢納せよと迫りました。これが追い返されると、モンゴル軍はヴォルガ川の支流に沿ってルーシへ侵攻します。まずドン川支流のヴォロネジ川の戦いでルーシ諸侯連合軍を打ち破り、リャザンを包囲して陥落させ、町を焼き払って住民を殺戮します。ついでコロムナを攻め取り、1238年2月にはウラジーミルを攻略、3月にはシチ川の戦いでウラジーミル大公ユーリー2世らを討ち取ります。

 真冬のモスクワ付近へ攻め込んだわけですが、モンゴル軍はもともと寒冷地に慣れており、ロシア伝統の冬将軍も効果を発揮しませんでした。むしろ河川が凍結する冬季こそ、騎兵部隊が川を渡って侵略できる好機です。ルーシも騎兵が主要な戦力でしたが、騎馬遊牧民でなく森林の狩猟農耕民、あるいは河川交通を利用した交易の民で、かつ多数の諸侯が割拠していたため、スキタイのような焦土作戦もとれなかったのです。ただルーシ諸侯の反撃も激しく、1238年にはコルゲンがコロムナで戦死し、コゼリスクの町は7週間に渡って抵抗を続け、モンゴル側に多数の死者を出させたといいます。当時のモスクワは小さな集落に過ぎませんでした。

 なお、モンゴル語では語頭にR音が来ないため、ルーシ(Rus)をオロス(Oros)と呼びました。Rを巻き舌で発音するので実際にそう聞こえるそうです。のちに清朝もそう呼び、漢字で俄羅斯と音写したため、現代チャイナでもロシアは俄羅斯と表記しています。日本でも江戸時代にはオロシヤと呼び、幕末維新期には魯西亜と書きましたが、1874年にロシア側から「『魯鈍(おろか)』に通じてよくない」と抗議があり、以後は露西亜と表記するようになったといいます。

 モンゴル軍は小部隊に分かれてルーシの各地を荒らし回ったのち、1238年には南へ向かい、クリミアや北カフカース一帯を制圧します。しかしこの頃バトゥはグユクやブリらと論功行賞を巡って激しく対立し、これを聞いたオゴデイはグユクやモンケらを帰還させています。1239年冬、バトゥらはルーシ南部(ウクライナ)に侵攻し、チェルニーヒウとペレヤスラウを陥落させてキエフに迫りました。この頃キエフ・ルーシの後継国家・ルーシ王国(ハールィチ・ヴォルィーニ大公国)がウクライナ西部に栄えており、キエフには将軍を派遣して防がせ、モンゴル軍の侵攻に備えています。

 1240年の秋から冬にかけて、モンゴル軍はキエフを包囲して陥落させ、ルーシ王国にも攻め込んで蹂躙しました。ルーシ王ダニールらはハンガリーやポーランドへ逃げ込み、モンゴル軍はついにカルパチア山脈の東麓まで到達したのです。ルーシ諸国のうち、モンゴル軍に蹂躙されなかったのはスモレンスク、ノヴゴロド、プスコフだけでした。モンゴル軍はルーシ諸国に貢納と服従を約束させると、軍を複数にわけてポーランド、ハンガリー、トランシルヴァニア、ワラキアへ同時に侵攻します。

東欧蹂躙

 1240年後半、モンゴル軍はリヴィウ北方に駐屯して偵察隊を派遣します。そして1241年2月に、チャガタイ家のバイダル、オゴデイ家のコデン、ジョチ家のオルダらに率いられてポーランドへ侵攻しました。まずルブリンを掠奪すると、凍ったヴィスワ川を渡ってサンドミェシュを包囲し、陥落させます。モンゴル軍のうちバトゥ率いる本隊はここで別れて南東へ向かい、ヴェレツキー峠でカルパチア山脈を越え、ハンガリーへ侵攻します。

 オルダはヴィスワ川沿いにポーランド中央部までを蹂躙し、南に転じてシレジア/シロンスク地方へ向かいます。バイダルは西へ進んでポーランド南部を蹂躙し、3月にはクラクフを陥落させ、シレジア地方の都市ヴロツワフでオルダと合流しました。シロンスク公ヘンリク2世はヴロツワフの西のレグニツァ/リーグニッツ(ドイツ名ワールシュタット)に兵を集め、ドイツ人の騎士団を招集し、ボヘミアからの援軍を待ちます。モンゴル軍はこれを阻止すべくヘンリク率いる連合軍へ攻めかかりました。時に1241年4月9日です。この戦いでヘンリクは戦死し、ポーランド・ドイツ連合軍は散々に撃ち破られ、モンゴル軍はシロンスクを蹂躙したのちモラヴィア地方へ移動します。

 同年4月10日、カダアン率いる部隊はトランシルヴァニアを蹂躙し、4月11日には、バトゥ率いる本隊がシャイオ川のほとりのモヒ平原でハンガリー軍と対峙します。ハンガリー王ベーラ4世は、騎馬遊牧民マジャル人の王として騎兵戦闘には長けており、素早く敵の前衛を撃破すると石橋を奪取して、川の西側に堅固な陣営を築きます。

 数で劣るモンゴル軍でしたが、バトゥはこれに対して七台の投石機を投入し、東岸に築かれたハンガリー側の橋頭堡に集中砲撃を行いました。火薬入りの爆弾と石弾、矢の雨が降り注ぎ、ハンガリー側の守備兵は雪崩を打って崩れ、騎馬部隊の突撃を食らって石橋を奪還されます。ベーラはモンゴル軍を川に追い詰めようと主力を投入し、決戦が行われました。バトゥが投石機と弓矢でハンガリー軍の騎馬突撃をしのいでいる間に、スブタイ率いる別働隊が戦場に到着し、ハンガリー軍は完全に包囲され潰滅します。

 スブタイは必死の反撃による被害を避けるため、孫子の兵法めいて一部の包囲を解き、ハンガリー軍は総崩れとなりました。僅かな将兵が離脱したものの、身軽になるため武具を放棄したため、モンゴル軍の軽騎兵に追いつかれてほとんどが討ち取られます。ベーラは辛うじて戦場を逃れ、教皇や皇帝、各地の諸侯に救援を呼びかけつつ、逃げに逃げてアドリア海の小島まで逃走します。オルダやバイダルらはモラヴィアのオロモウツで敵軍を撃破すると、バトゥの本隊と合流し、ウィーン近郊まで迫ります。

 時の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は開明的な啓蒙君主で、シチリアと南イタリアを支配し、ローマ教皇グレゴリウス9世とは激しく対立していました。ウィーンを治めるオーストリア公のフリードリヒは皇帝と対立しており、むやみに周辺へ戦争をふっかけて嫌われていましたから、モンゴル軍がウィーンを攻めればたやすく占領されたでしょう。また謎の異民族の襲来に恐れおののく教皇とは違い、皇帝はイスラム教徒と平和裏に外交交渉できるほどの国際派でしたから、モンゴルともうまく交渉して手を組んだかも知れません。しかし、この時大事件が起こりました。

 1241年12月、モンゴル皇帝オゴデイ・カアンが突然崩御したのです。暗殺ではなく、狩猟に赴いて天幕で深酒をした翌朝、アッティラめいて脳卒中を起こしたか絶命していたといいます。寒い時に大酒なんて飲むからです。彼は大帝国の跡を継いだストレスとプレッシャーからか大酒飲みになり、しばしば注意を受けていたそうですし、56歳ですからまあ寿命でしょう。

 この大ニュースは、オゴデイが整備した駅伝制度によって、1242年3月には遠くウィーン近郊まで届きました。バトゥらはハンガリーの首都エステルゴムを攻撃しつつ次の目標への偵察を行っていましたが、次の皇帝を選出するクリルタイが開かれるから帰還するようにとの皇后ドレゲネからの命令を受け、やむなく引き上げていきました。カダアンはベーラを追ってダルマチアへ向かい、アドリア海まで到達しましたが、追跡を諦めて帰りました。

 モンゴル軍はポーランド、モラヴィア、ハンガリーなどの直轄統治を諦めたものの、莫大な戦利品を獲得し、ルーシとキプチャク草原はモンゴル帝国の版図となります。これらはジョチ家の領地とされ、広大なジョチ・ウルスを形成することになりました。

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【続く】

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