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【つの版】日本刀備忘録36:悪事高丸

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 奈良や京都の遥か東北=鬼門の方角には、広大な東北地方(陸奥国と出羽国)があり、古来蝦夷が住んでいました。平安時代初期に蝦夷を平定した征夷大将軍・坂上田村麻呂は、国の北を守る軍神・毘沙門天の化身として崇められ、武家が台頭すると武士の理想像として称えられます。また彼は各地の鬼神を退治したとの伝説が広められ、史実から離れて独り歩きし始めます。

◆諏◆

◆訪◆


悪事高丸

 延文元年(1356年)、諏訪円忠により京都で編纂された『諏方すわ大明神画詞』によると、将軍の坂上田村丸(麻呂)は延暦20年(801年)2月に東夷の勇士・安倍高丸(悪事の高丸)を追討するため奥州に下向しましたが、諏訪大明神が東関第一の軍神であると伝え聞き、心の中に助力を祈願しました。彼が信濃国伊那郡と諏訪郡の境に至った時、一人の騎馬武者が現れて参陣を願ったため、将軍は彼を先陣として奥州へ向かいます。

 将軍が高丸の城(宅谷岩屋/達谷窟)を窺い見ると、背後は巌壁に寄り、前は海を向き、左右は鉄石が厳しく閉じられ、人馬も進めません。高丸はこの城に立て籠もっており、官軍は進退窮まりました。そこで将軍が信濃の騎馬武者に相談すると、彼は馬に鞭打って海上に臨み、たちまち5人に分身しました。また「黄衣の化人」が20余人現れ、各々的を捧げて海上に走り、5人の騎馬武者は馬を走らせながら的を射る「流鏑馬」を始めます。

 高丸は畏怖していましたが、城内の男女らに勧められ、門戸に臨んで様子を伺います。すると的が靡く音がしたので、矢が尽きたかと思って顔を出したところ、雁股の鏃をつけた鏑矢が飛来して高丸の両目を射抜き、高丸は逆さまに海へ落下しました。黄衣の化人が駆け寄って首を取り、騎馬武者は首を鉾先に刺し貫いて掲げ、官軍一同は勝鬨をあげます。高丸の家来はこれを見て降伏し、城郭はたちまち崩れ落ちました。

 将軍は涙を流して神威を仰ぎ、彼を先陣として帰路につきます。そして信濃国佐久郡と諏訪郡の境に至った時、騎馬武者は衣冠束帯の姿に変じて正体を現し、「我はこれ諏訪明神なり。王城を守らんがために将軍に随行した。いますでに賊首を奉り、さらに上洛に及ばず。この地にとどまって狩りの遊びをいたす」と告げました。かくて田村丸は凱旋し、事情を聞いた桓武天皇は諏訪郡の田畑・野山を寄進し毎年の奉納を約束したので、これより諏訪で狩りの祭(御射山祭)が行われるようになったといいます。

 また同書によれば、高丸の後胤を安藤太といい、武家(鎌倉幕府)より蝦夷の管領に任じられ、濫吹(秩序を乱すこと)を鎮護させたといいます。『元亨釈書』では「奥州の逆賊高丸」というだけでしたが、ここでは安倍という氏、「悪事の」という異名が付け加えられ、子孫についても言及されています。「悪事」は『吾妻鏡』に名の見える田谷窟の賊徒・悪路王が「あくじ」と読まれたことによるのでしょうが、安倍氏や安藤太は何でしょうか。

安藤五郎

 南北朝時代に編纂された『保暦間記』によると、鎌倉時代に蝦夷管領(代官・沙汰職)に任じられたのは安藤五郎といい、建保4年(1216年)12月に陸奥守となった北条義時が「東夷の地の支配」として派遣したとされます。鎌倉時代の僧侶・日蓮の建治元年(1275年)の書簡には「安藤五郎は因果の道理をわきまえ、堂塔を多く作った善人であったが、なぜ蝦夷に首をとられたのか(文永5年/1268年の蝦夷の乱)」という記述があります。52年も離れていますから、後者は義時の頃の安藤五郎(安藤太?)の子孫でしょうか。あるいは義時の時代より後に派遣されたのでしょうか。

 彼の出自には諸説あり、『保元物語』に見える信濃の安藤次・安藤三や、頼朝の奥州合戦で手柄を立てた三沢安藤四郎と関係があるとも、駿河国安東庄の武家であるとも言われますが、安藤五郎の子とされる季盛(貞季)は「安倍季盛」とも名乗っていたことが弘前市に伝わる鐘の銘文から判明しています。あるいは別人かも知れませんが、この鐘は嘉元4年(1306年)に北条得宗家の貞時(出家して崇演)が藤崎護国寺に寄進したもので、同時代の蝦夷管領が名を連ねないのも不自然です。つまり安藤氏はかつて奥州の支配者であった安倍氏の後裔を名乗り、蝦夷管領の権威づけとしたのです。

 もっとも奥州に安倍氏が朝廷から派遣されたのは11世紀中頃のことで、坂上田村麻呂の時代にはまだいません。安倍比高が陸奥国司や鎮守府将軍になったのは田村麻呂の薨去から半世紀も後です。桓武朝初期に蝦夷征討を行った鎮守府副将軍の安倍猨嶋墨縄は、悪路王のモデルらしき阿弖流為らに大敗を喫して官位を剥奪されています。7世紀中頃に蝦夷を率いて粛慎と戦った阿倍比羅夫の末裔であるとも、神武天皇に敗れた長髄彦(安日長髄彦/安日彦)の末裔であるともいいますが眉唾物です。

 安藤氏は鎌倉時代後期に家督を巡って内紛を起こし、混乱に乗じて蝦夷が反乱したり、得宗家の裁定に不満を抱いた安藤氏自体が反乱を起こしたりしています。得宗家を傀儡とする内管領の長崎氏は安藤氏の乱を鎮めようとして御家人を派遣しますが鎮圧できず、結局和談が成立しましたが、このことは得宗家や幕府の権威を揺るがし、幕府滅亡の原因の一つになりました。その後も安藤氏は津軽や出羽に勢力を誇り、『諏方大明神画詞』には安藤氏と交流のあった蝦夷ヶ島(北海道)の蝦夷についても記述があります。『元亨釈書』の高丸を『吾妻鏡』の悪路王と結びつけ、安倍氏・安藤氏の祖としたのは、蝦夷管領・安藤氏による箔付けかも知れません。

堅貪之剣

 同時代に編纂された『神道集』には、『諏方大明神画詞』に説く高丸退治の物語がやや異なる形で伝えられています。それによると、桓武天皇の御代に奥州に「悪事の高丸」という朝敵がおり、人々を苦しめていました。そこで帝は田村丸を将軍として高丸征伐を命じました。

 同書によると、田村丸は日本ではなく震旦(チャイナ)の生まれで、漢の高祖に謀反を起こした朝広(秦の趙高?)の家来でしたが、朝広が敗れると日本に亡命しました(坂上氏は漢の献帝の末裔を称していましたが)。日本の勝田宰相(史実の坂上田村麻呂の父・苅田麻呂か)は子がなかったので、彼を養子として稲瀬五郎田村丸と名乗らせたといいます。稲瀬の氏がどこから来たかわかりませんが、いま岩手県江刺郡には稲瀬の地名があります。

 田村丸が清水寺の千手観音に願をかけると、七日目の夜半に「鞍馬の毘沙門天は我が眷属であるゆえ、彼に願え。奥州に向かう時は山道寄りに下れ。さすれば兵を付き添わせよう」とお告げがありました。そこで鞍馬寺に参詣して多聞天(毘沙門天)・吉祥天女・禅尼師(善膩師)童子に祈願すると、「堅貪慳貪、ケチで欲深く無慈悲なさま)」という三尺五寸の剣を授かりました。田村丸はこのことを上奏したのち出発し、東山道を進んで信濃国に入ります。すると伊那郡において甲冑を纏った二人の騎馬武者が現れ、田村丸に付き従いました。『諏方大明神画詞』より一人増えています。

 やがて一行が高丸の住処に到着すると、高丸は堅牢な城郭に立てこもり、兵を率いて手向かいます。田村丸は副将の波多丸・憑丸、信濃から随行した二人の武者とともに激しく戦いますが、高丸は弓勢が強く神通力にも優れ、なかなか攻め落とせません。そこで田村丸は一計を案じ、海の上に船を浮かべ、蹴鞠や流鏑馬をして遊んでみせます。高丸の娘は城の中からこれを見て「父上、あれをご覧なさい」と云ったので、高丸は石の扉を少し開けて覗きます。そこで信濃の武者が高丸の左目を射抜き、田村丸が堅貪の剣を抜くと剣はひとりでに高丸に斬りかかり首を刎ねます。将軍たちは勢いに乗じて城に乱入し、高丸の八人の子を討ち取りました。

 勝利を得た一行が東山道を戻っていくと、信濃国伊那郡大宿で一方の武者が自らの正体を現します。そして「我は諏訪明神、千手観音・普賢菩薩の垂迹である。狩庭の遊びを好むゆえ、狩の祭を行って欲しい」と願いました。田村丸が「菩薩がなにゆえ殺生を好まれますか」と訝しむと、明神は「我は殺生を職とする者(猟師)に利益を施し、神前の贄とすることで畜生を救済する志を持っておる」と答えました。そこで田村丸は諏訪の地を寄進し、深山の狩の祭を始めましたが、その縁日は7月27日で、悪事の高丸を滅ぼした日です。死狂の日であるためこの日は必ず大雨大風となりますが、同時に十悪の情が滅んで国が騒動し、畜生が成仏して諸天を感動させるのです。

 もう一人の武者は住吉明神と名乗って姿を消し(もとは諏訪上社と下社の化身で二人だったのでしょうか)、田村丸は都に凱旋して高丸の首を宇治の宝蔵に納めました。そして清水に大きな御堂を造営して勅願所とし、勝敵寺と名付けたといいます。また諏訪明神は高丸の16歳の娘を生け捕りにして御前に置きましたが、やがて彼女は妊娠し、一人の男児を産み落とします。明神は彼を上宮の神主に定め、自らの体(依代)であるとして「」の姓を与え、子孫に伝えさせました。これが諏訪神党の始まりとされます。

 諏訪神党は、諏訪明神の子孫で現人神とされる諏訪大祝家に連なる諸氏族の連合体です。信濃の武者は多くが木曽義仲に味方したため、鎌倉幕府の御家人としては冷遇されていましたが、北条義時が信濃守護となった縁で諏訪氏は北条氏の有力な御内人(被官)となり、武家の守護神たる軍神として尊崇を集めました。猟師も武者も殺生を生業とするため、その罪悪感を諏訪明神が晴らし、弓馬の道を狩りの祭で鍛錬させてくれるというわけです。諏訪氏と諏訪神党の北条氏への忠誠心は強く、幕府滅亡後も得宗家の遺児・時行を匿い、中先代の乱を起こさせたことで有名です。その後も諏訪は長く北条を滅ぼした足利氏に従わず、南朝の宗良親王を信濃に招いて戦いました。

 しかし次第に南朝は劣勢になり、尊氏が没して子の義詮が将軍となると、諏訪氏は彼に従います。『諏方大明神画詞』を編纂した諏訪円忠は諏訪氏の分家で、鎌倉幕府滅亡後には上洛して足利尊氏に仕えており、彼の執り成しもあって諏訪氏は室町時代にも存続しました。『元亨釈書』では高丸討伐を清水寺の勝軍地蔵と毘沙門天の加護のゆえとしますが、『諏方大明神画詞』や『神道集』では、代わりに諏訪明神(や住吉明神)が登場し、その活躍も武家を守護する武神にふさわしいものとなっています。諏訪氏が「朝敵」の汚名を払拭し、むしろ朝敵討伐に貢献してきたとアピールするため、『元亨釈書』の高丸討伐伝説を借用して新たな神話を作り出したのでしょう。

 これらの伝説は『太平記』や『大江山絵詞』よりも早く成立しており、後世の様々な鬼退治伝説にも影響を与えた節があります。南北朝時代から室町時代に入ると、田村丸と高丸の伝説はさらに変遷を遂げ、大嶽丸や鈴鹿御前といった新たな鬼神たちが登場し始めることになります。

◆逃◆

◆若◆

【続く】

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三宅つの
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