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【つの版】ウマと人類史:近世編09・恐怖政治

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1558年、モスクワ・ロシア(モスコヴィア)はリヴォニア連盟に対して条約違反を理由に宣戦布告し、長きに渡るリヴォニア戦争が始まります。これは周辺諸国を巻き込む大戦争となりました。

◆雷◆

◆帝◆


利沃侵攻

 モスクワ・ロシアの最初の攻撃地点は、ナルヴァ川西岸の都市ナルヴァです。この川の東側には、1492年にモスクワ大公イヴァン3世が築いたイヴァンゴロド(イヴァンの街)があります。

 これとは別に、プスコフ方面からはドルパト(タルトゥ)へロシア軍が侵攻します。タタール騎兵を含むロシア軍は5月にドルパトを、7月にナルヴァを占領し、レヴァル(現エストニアの首都タリン)を包囲しました。ロシア軍はエストランド(エストニア)をほぼ制圧し、リヴォニア全土は風前の灯となります。しかし南のクリミアで不穏な動きがあったため、ロシアは1559年5月に半年間の停戦を結びます。

 この間にリヴォニア騎士団総長の座についたゴットハルト・ケトラーは、ポーランドとリトアニアを宗主国とする代わりに支援を求めます。停戦期間が終わるや戦闘は再開され、リヴォニア騎士団は1560年8月に壊滅的な敗北を被ります。しかしレヴァルは陥落せず、主要な都市もロシア軍に抗戦して従おうとはしませんでした。ただポーランド議会はリトアニアに戦いを任せて動かなかったため、ケトラーはスウェーデンにも助けを求めます。

 スウェーデン王グスタフは同年9月末に亡くなり、スウェーデンは息子エリクが、フィンランドはその弟ヨハンが継承していました。しかしエリクは援助を断り、ケトラーはポーランド王ジグムント2世に助けを求めます。

 ジグムントはポーランド王とリトアニア大公を兼ね、キエフ、ルテニア、ヴォルィーニ、プロイセンなどの世襲領主と称していました。彼がリトアニア大公でもある以上、リヴォニアは彼の護るべき領土のはずです。

 1561年11月末、ヴィリニュス条約によってリヴォニア騎士団は解散し、その領地は世俗諸侯の保有するリヴォニア公国、クールラント・ゼムガレ公国となり、リトアニア大公国の庇護下に置かれました。ケトラーはルター派に改宗し、最初のクールラント公となります。またスウェーデンはエストニア確保とナルヴァ奪還のため、1562年にフィンランド湾を海上封鎖しました。ポーランド、リトアニア、スウェーデンがロシアの敵になったのです。

皇妃崩御

 長引くリヴォニア戦争に対し、ロシア国内では不穏な動きが強まります。側近アダシェフは「戦うべきはクリミアであり、リヴォニアをとればポーランドの本格的な介入を招く」と反対していましたが、イヴァン4世は反対を押し切って開戦し、リヴォニアへ全兵力を傾けます。アダシェフとクルプスキーは司令官に任命され、やむなくリヴォニアで戦果をあげますが、好機がありながらも戦線を停滞させ、膠着状態に陥らせてしまいます。

 1560年8月、イヴァン4世の妃アナスタシアが若くして病死します。彼女は13年の結婚生活で6人の子を産み、長男ドミトリーは夭折したものの次男イヴァンと三男フョードルという世継ぎを儲けていました。イヴァンは「アダシェフたちがアナスタシアの実家ザハーリン家と対立して毒殺したのだ」という陰謀論を信じ込み、まもなくアダシェフの全領地を没収してドルパトの要塞へ投獄させます(翌年死去)。アダシェフ派のシリヴェーストル司祭も島流しにされ、イヴァンはザハーリン家と結んで貴族たちと対立します。

 1561年8月、イヴァンはムスリムのチェルケス人の王族の娘クチェニェイを正教に改宗させてマリヤと改名させ、後妻に迎えます。1562年には新しい土地法を制定し、貴族の領地相続に制限を加え、継承者が寡婦や娘であれば土地は強制的にツァーリに召し上げられると決め、ツァーリの権力を強化しました。同年にはザハーリン家を大貴族に叙しています。1563年にはイヴァンの師父であったモスクワ府主教マカリオスが逝去しました。

退位宣言

 この頃、スウェーデンはフィンランド湾を封鎖したことで、ハンザ同盟やデンマークと対立していました。1563年、デンマークはスウェーデンに宣戦布告し、スカンディナヴィア半島を主戦場として戦争が始まります(北方七年戦争)。ロシアはこれを好機としてデンマークと同盟し、スウェーデンと休戦して、リヴォニアを支援するリトアニア本国への侵攻を開始します。

 標的となったのは、現ベラルーシ北部の要衝ポロツクです。リーガに通じるダウガウァ川の上流に位置し、かつてはルーシ系ポロツク公国の都だったこの都市を、ロシア軍はクルプスキーらの活躍で降伏に追い込みました。さらにスモレンスクからの援軍を合流させ、一気にリトアニアの首都ヴィリニュスを突く予定でしたが、1564年1月にリトアニア軍に迎撃されて壊滅します。それでもポロツクはロシアが確保し、15年間駐留し続けます。

 1564年4月末、イヴァンの親友にして優秀な軍司令官であったクルプスキーがリトアニアへ亡命します。猜疑心に満ちたイヴァンは反対派や和平派を次々と粛清していたため、クルプスキーも危険を感じて逃げ出したのです。他にも亡命者は相次ぎ、怒り狂ったツァーリは奇妙な行動に出ます。

 1564年12月、イヴァンは突然家族を連れて宮廷を出、モスクワ郊外の別荘アレクサンドロフに移り、退位を宣言しました。弾圧される貴族や聖職者からの厳しい批判にショックを受け、身の危険を感じて逃げ出したともいいます。ツァーリ不在のモスクワは不安と混乱に包まれ、ツァーリを「神に選ばれた皇帝」「民衆の父」「貴族や聖職者の横暴から民を護る庇護者」とのプロパガンダを受け続けていたモスクワ市民は暴動寸前となります。

 イヴァンは隠棲先からこの状況を伝え聞き、モスクワ市民とモスクワ府主教に対して怪文書を送りつけます。「貴族は外国と通じた欲深き売国奴であり、腐敗した聖職者は彼らと癒着し、ツァーリの権限を制限している。彼らに苦しめられている点において、ツァーリと民衆は同じだ」という内容で、あからさまに欺瞞ですが、真に受けた市民はたちまち暴動を起こします。

 モスクワは大混乱に陥り、音を上げた貴族や聖職者らは民衆からの嘆願としてツァーリに復位と帰還を求めます。ツァーリは退位撤回の条件として、反逆者を自由に処罰する権限をはじめとする「無制限の非常大権」を求め、これを受け入れさせることに成功しました。かくて恐怖政治が始まります。

恐怖政治

 猜疑心と復讐心、強迫観念のとりことなったツァーリが、文字通り無制限の独裁権を手に入れたのですから、何が起きるか火を見るより明らかです。彼は1565年2月にモスクワに帰ると、裏切り者と不従順な者を処罰する「外の(オプリーチ)宮廷」の制定を宣言し、翌日大貴族7名を処刑しました。そして自分にのみ忠誠を尽くす貴族ら1000人を集めてオプリーチニキと名付け、ツァーリを長とする秘密警察・親衛隊とします。また帝国全土をオプリーチニナ(ツァーリの直轄地)とゼームシチナ(旧来の貴族の領地)に分けて財源とし、ツァーリは両者の長として全権を掌握しました。

 オプリーチニキにより反対派は次々と逮捕・粛清され、財産はツァーリに没収されます。中央集権は進んだものの、彼らの暴走は貴族や聖職者ばかりか民衆にも恐れられ、リトアニアなど諸外国の働きかけもあって亡命者が続出します。1566年には身分制議会「全国会議(ゼムスキー・ソボール)」が開催され、オプリーチニナ制度の撤廃が嘆願されますが、ツァーリは嘆願者を皆殺しにして黙殺したといいます。死人に口なしです。

 このような有様ですから、対外戦争もうまくいくはずがありません。リトアニアは同君連合であるポーランドからの支援を求め、またロシアと対立しているクリミア・ハン国やオスマン帝国にも出兵を要請します。スウェーデンはデンマークとの戦争が膠着状態に陥り、1568年にフィンランド公ヨハンがクーデターを起こして王位を簒奪します。彼はポーランド王女カタジナと結婚しており、ポーランドと手を組んでロシアに対抗します。内外に敵を作りすぎたイヴァンは、その報いを受けることになるのです。

◆雷◆

◆帝◆

【続く】

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