見出し画像

ウイグル旅行を振り返って──中華民族のディストピア

 先日、noteでウイグル旅行記を前後編に分けて2篇投稿した。

 概ね4日間の旅行は私の抱いていた従来のウイグル観を大きく崩すと共に、一つの結論を導き出させた。つまりこの2023年のウイグル自治区(少なくとも主要都市圏)は、既に"従来の民族文化が全て浄化されたディストピア"なのではないかと言うことだ。これについて端的に述べていきたい。

①監視体制の弱体化・縮小化

 従来、ウイグル自治区のイメージといえば監視カメラが縦横無尽に張り巡らされ、警察が数十メートルおきに常駐する監視都市というイメージだろう。しかし今回の滞在中で、これらを感じることがほとんどなかった。
 特に職務質問などのようなイベントは、ウルムチ入域時の一回だけしか行われず、駅でのチェックインなどでパスポートを出した以外、まずこれを見せるような機会すらもなかった。
 また監視カメラについては、北京や他の地方都市に比べ多いような印象も特段抱かなかったし(これについてはコロナ禍を経て全国がウイグルを規範として整備された可能性もなくはない)、警察については有名観光地以外で見かけるようなことはほとんどなかった。 

 実感としては、北京よりも監視体制が緩いのに比較的整然とした観光都市なのだなあと感じた。

②綺麗な街並み、整然とした都市

 ウルムチとカシュガルを観光時に共通して思ったのは、両都市はとても綺麗な都市であると言うことだ。これは優麗というわけではなく、埃や傷の内容は整然とした都市という意味で捉えてほしい。つまり生活感を感じるようなことが少ない、強いていえばディズニーランドの街並みのような"綺麗な街並み"、テーマパークというような様相を呈していたというわけだ。
 例えば、昔の方のウイグル旅行ブログ(それでも10-20年前程度である)に映るような都市とは全くの別物と思うような勢いで都市はとても綺麗になってしまっていた。

③祈りなき都市、モスクなき都市

 やはり1番大きいのは滞在中、イスラームに関連する一切の祈りが見られなかったことだろう。もちろんイスラームを修めているわけではないが、それでもイスラム文化圏では見られるような祈りのある生活の一切が一片たりとも見られなかったことは異常としか思えない。
 もしかしたら観光地以外ではやっているのかもしれないが、その時に使われるだろう小規模なモスクですら閉鎖されている状況下は、もはや祈りを強制的に廃絶しているように感じる。

 以上が私のウイグルでの気づきであり、これから考えられる結論は、コロナ前に行われていたようなウイグル族に対する文化的ジェノサイドは、現時点ではそのほとんどが完了したのではないかということだ。
 もしそうだとしたら、ウイグルはもはやかつての生きた文化を伝えるような自由な都市ではなく、党により"清く正しい中華民族の一員"として活動する、党と中央政府にとって理想のディストピア世界なのではないか。
 そしてこれの恐ろしいところは、ある意味で成功を納めたかもわからないウイグルモデルは今後中国各地の少数民族地域でも導入され、近いうちにこの国は漢族と少数民族らの国家ではなく"偉大なる中華民族"の国家へと変容していくのだろう。
 果たして我々は、いつまでこの国の生きた民族多様性を見ることができるのか。そのようなことを考えさせるウイグル旅行だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?