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青春時代のアイドル、レディー・ガガときゃりーぱみゅぱみゅ #私の2010s

第1回:レディー・ガガと出会った日

マドンナ好きだった母親と一緒にアイスホッケーのゲーム(日本のやつ)を観に行った。そこでピリオド間に流れたBGMを聞き、「なにこれ!誰の曲?!」とふたりで大騒ぎした。家に帰ってから急いでWindows VistaのPCでYouTubeを開き、どうにかして調べ、私たちが興奮した楽曲がレディー・ガガの『Bad Romance』だというところまでたどり着いた。

MVを再生してみると、さらに衝撃を受けた。2009年11月に公開されたMVを発見したのは翌年のことで、私は16歳になりたてだった。ちなみに、アメリカの大統領はすでにオバマだった。

そこからガガのMVを漁れば漁るほど、カルチャーショックで熱くなっていた。レンタルショップや図書館でアルバムをゲットし、iPod nano(私のはオレンジ)に同期していく。それまで聞いてきたフィメールポップアーティストのブリトニー・スピアーズでもなく、デスチャでもない新型ダンスミュージックの連続。YouTubeのVEVOで観るMVは、複雑なアート表現が多いマドンナよりカジュアルで、もっとカラフルなショッキングさがあった。

レディー・ガガの話をしていたのは学年で2人だけだった

当時、いきものがかりやYUI、AKB48が大流行しているクラスで、友達にレディー・ガガの話をすることはなかった。ガガは、テレビやネットニュースで生肉を体に巻きつけたり(びっくりしたけど、いまだにGoogleの検索サジェストに出てくる)、ものすごい高さのハイヒールを履いてコケる場面がフィーチャーされて、パパラッチをすぐに殴るジャスティン・ビーバーと並ぶお騒がせセレブの代表的な存在だった。まれにテイラー・スウィフトやケイティ・ペリーを好きだという子はいたけど、お母さんと意気投合したという経緯も気恥ずかくて、ガガの話はなかなか友達に共有できなかった。

そしたら、中学時代からの親友が交換ノートで「レディー・ガガっていうのにハマってる」とこっそり教えてくれた。あの時の「あ、私だけじゃないんだ!」という感動はいまだに覚えている。感動しすぎて、どこでノートを開いたかすら覚えている。

青文字系『Zipper』ときゃりーぱみゅぱみゅ

その頃、彼女と共有していた趣味がもうひとつある(実はひとつどころじゃないけど)。2017年末に休刊したファッション雑誌『Zipper』だ。JKという言葉が生まれたてだった高校時代、女子のファッションは、綺麗めで正統派な赤文字系と、サブカルチャーっぽい青文字系に分かれていた。

森ガールやロングスカートが大流行するなかで、ショートカットの内側を刈り上げたり、チェリー柄のタトゥータイツを履いたりする人間は多くなかった。その頃のZipperは今も活躍する読者モデルの宝庫で、私たちは憧れのAMOAYAMO、瀬戸あゆみちゃん、Unaちゃん、7Aちゃん、中田クルミちゃん達のスナップを切り取っては交換ノートに貼りまくっていた。そんな読モ達の頂点に立っていたカリスマ的存在が、きゃろらいん・ちゃろんぷろっぷ・きゃりーぱみゅぱみゅ、通称きゃりーぱみゅぱみゅだ。

きゃりーが一躍話題になった中田ヤスタカプロデュースの『PONPONPON』をリリースしたのが2011年8月。高2の夏休みのことだった。私たちは地方の進学校に通っていたので、課題でオープンキャンパスに出かけなくてはならず、朝から電車を乗り継いで千葉大学に行った。ふたりでのその古い構内を回りながら軽く退屈し(成績が足りていないくせにとても失礼)、どちらかといえばメインイベントである午後の原宿古着屋探訪デビューに命をかけていた。SPINSやWEGOをまわって服を買い、Forever21にいって安い服を買い、ラフォーレに入って緊張した。17歳なんてほとんどハイティーンだけれど、田舎者のふたりにとっては「親がいない東京」自体がとんでもなくキラキラした世界だった。

シノラーを知らない私たちこと、2010sティーンエイジャーで青文字雑誌フォロワーの古着系女子にとっては、はじめガガもきゃりーも「クールなモンスターちっくのファッションアイコン」として輝いていた。もしかしたら、今のビリー・アイリッシュみたいな存在だったかもしれない。ビリーのファッションと令和JK御用達のpeepsにも、同じようなカルチャーの同期性を感じる。ガガのファッションは真似できるものではなかったにしろ、「生肉」「大胆な柄」モチーフやそれを堂々と着こなすアティチュードみたいなものは、当時のゆるふわな森ガールファッションを受けつけない女子に寄り添う精神性を帯びていた。

分岐点は『ボーン・ディス・ウェイ』

私にとって同じグループだったガガときゃりーが切り離された瞬間がある。ガガが2011年にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催したライブを映像化した『Monster Ball Tour At Madison Square Garden : Lady Gaga』を、WOWOWか何かで見た時だ。この映像に『Born This Way』をアカペラで歌い上げる様子が収録されている。ドラマチックで過激な小林幸子的ファッションのイメージから一転、アカペラでコーラスとハモる彼女の歌声は、とても洗練された美しいゴスペルミュージックそのものだった。

2011年5月にリリースされた『Born This Way』は、彼女にとって最もアイコニックで、LGBTQコミュニティにも支持される社会的なメッセージを発信することになった楽曲のひとつだ。それまでのキャラクターやイメージに覆い尽くされていたMVや原曲とは裏腹に、アカペラでのパフォーマンスによって彼女の文脈が脱構築され、「曲の中身」にあるメッセージがダイレクトに発信されていた。さらに、私もその文脈を受信できるほどのリテラシーと英語力を、受験勉強によってなんとか培っていた。
歌詞を調べ、和訳を調べ、ガガのWikiを調べ、彼女の生い立ちや薬物との関係を調べた。マドンナの『Express Yourself』とちょっと似ていて、マドンナがちょっと怒っていそうなことも知った。

きゃりーも引き続きポップスターとして活躍していたが、高3を迎えた私のなかで、これまで一括りになっていたガガとは一線が引かれた。同時に私がのめり込んでいた「邦ロック」と呼ばれるJポップの括りにきゃりーは移っていき(2012年ロックインジャパン、サマソニでのきゃりー初参戦が衝撃的だった)、大学受験を目前に青文字系の雑誌も少しずつ読まなくなっていった。

音楽へのアクセスはYouTubeと紙雑誌、テレビ

考察。私が高校生だった2010年〜2012年の間に、レディー・ガガの前衛的なキャラクター性ときゃりーの青文字的なファッションが交差するタイミングがあった。さらに、10代女子の間でこの趣は「サブ」的な立ち位置だった。mixiなどのコミュニティ的SNSをやっていなかった私は、YouTubeのMVとレンタルCD屋さん、MステやWOWOW、紙雑誌、オフラインでの口コミから音楽の情報を得ていた。その幅はとっても狭く、濃厚なフィルターバブルがかかっていた。

また、「海外スター=お騒がせセレブ」というフィルターがかなり大きかった記憶がある。ジャスティン・ビーバーはセレーナ・ゴメスと常にハッピーセットだったし、当時からカニエ・ウエストはゴシップの常連客のイメージがあった。日本のメジャーな音楽番組で語られることはほとんどなく(Mステにミニミニコーナーがあった記憶)、海外アーティストへのアクセスはゴシップ・スナップ雑誌かワイドショーの海外コーナーだった。そこに音源はなかった。

音楽好きからすると、マジかというレベルのメディア・ディバイド(情報格差)かもしれない。でも、その当時の私は自分の持ちうる情報をもってしても、洋も邦もおさえた「音楽好き!」だと思っていた。しかも、そういう人は少なくないんじゃないかなと思う。

レディー・ガガの来日コンサートは2014年8月にQVCマリンフィールドで行われた『ArtRave: The ARTPOP Ball TOUR 』をもって開催されていない。この来日は、私にとって人生で初めての外タレ単独イベントになった。彼女は2010年代に日本のポップカルチャーと唯一橋渡しを果たした海外ミューズだったのではないかと思う。

映画『アリー/ スター誕生』を経て、2020年ガガは私たちにアンセムを送ってくれた。ipod nanoからiphone 11になった今もガガを聴いているなんて、10代の頃は正直思っていなかったかもしれない。

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このnoteは、今年発売された書籍『2010s』を読んで、私にとって青春時代のほぼすべてだった2010年代のエンタメは、どうだったかを振り返ってみるwebファンジンです。詳細はこちら:

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