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昭和の宴会の終焉

昭和の宴会料理の作法をご存知だろうか。
まず、着席前に料理がそこそこ並べてある。
それを前にしてエラい人の挨拶があり、別のエラい人が乾杯の挨拶をして、場合によってはさらに別のエラい人が乾杯の音頭をとって、皆で乾杯してから宴会がスタートする。
スタートするなり、料理が次々と運ばれてくる。
刺身、揚物、焼物、煮物などがどんどん出てくる。
客が食べるペースに合わせたりはしない。
テーブル上を賑やかにするため、どんどん品出しするのだ。

客のほうはその料理を横目に酒を飲む。
僕は初めて昭和の宴会に出会った際、乾いた刺身や冷めた揚物なんて食べたくないので、頑張って食べようとしていたが、ほとんどの人は全く箸をつけずに席を立った。
ビール瓶を持ってエラい人に注いで回るのだ。

皆が席を立ってウロウロしている間に料理はどんどん出てくる。
僕は食事を食べながら飲みたいし、料理は温かくておいしい間に食べたい。
そうすると自分の都合で注ぐほうが合理的だ。
自分で酒を注ぐと周囲の人を「わっ!気が付かなくて申し訳ない!」と慌てさせた。
酒が飲みたければ自分で注ぐのではなく、周りの人に注ぐ。
そうすればその人が注ぎ返してくれるので、自分も飲むことができるという仕組みなのだ。
働き始めた頃は、それが暗黙のルールなのか?と思って周囲に倣って同じことをやったりしたが、納得できないので途中から止めてしまった。
つまり、自分で勝手に酒を注いで飲む変なヤツに認定される。
お前は懇親に来ているのではないのか?単にメシを食いに来ているのか?ということだ。
ルールを理解しない変なヤツに認定されてからは、飲みに誘われることがなくなって好都合だった。
なお、僕は懇親を好まないのではない。
少人数で食事しながら酒を飲むのは懇親が深まるので好きだ。
形式的で合理性がなく、食事の場としても、懇親の場としても中途半端な昭和の宴会が嫌というか、納得できなかったのだ。

さて、次々に運ばれてきて、テーブルの上で乾いたり冷めたりした料理だが、そのまま食べる人がいなくて破棄されるのかといえばそうではない。
宴会の間中、酒を注ぎ合って飲んでばかりいた人たちが、ご飯が運ばれてくる頃には自席に戻り、一気呵成に食べるのだ。
30年前にはこういう人がたくさんいた。
今でも時々そういう人に出会う。
目の前に料理を渋滞させるので「お腹いっぱいなら料理を止めてもらうか、小ポーションにしてもらいましょうか?」と言うと無用だと言われる。
どうするのだろう?と思っていると、最後の最後で一気に片付けてしまうのだ。
ああ、この人にはまだ、昭和の習慣が残っているのだと驚く。

今でもそういう提供をする店は老舗旅館に残っている。
昔ながらの緻密な仕事を施した素晴らしい料理なのに、提供方法が昭和のままだったりするのだ。
何十年も料理長をやっていて、腕がいいから、オーナーも口出しできなくなっているのだろう。
料理は手が込んだ古い仕事を手抜きなくやっていて素晴らしいのだから、現代の嗜好に合わせた提供ができれば...と思っていた。

しかし、コロナ禍で宴会需要が消滅し、おそらく昭和の宴会は息の根を止められただろう。
昭和ならではの素晴らしい仕事をしていた高齢の職人の多くは引退したのではないか。
一部の料理人が昭和の仕事を引き継いでいるが、これからは飲食店や宴会の形態が変化することが予想される。
どのように変化するのかは、長くなるので別に書きたい。
今回はほぼ絶滅したであろう昭和の宴会料理とそのマナーについて書き残しておくことにした。

宴会も時代とともに変化しているのだ。

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