広島市在住のシャオヘイこと池上弘一と申します。 広島県庁を卒業してしばらく経ちますが、noteから「自分のプロフィール記事を書きましたか?」というサジェスチョンがあり、自分がやってきた仕事を書いてないことに気づきました。 覚えている範囲で書いてみましたが、履歴書のようなものなので、ご興味ある方だけご覧ください。 僕は高等学校を卒業してすぐ、広島県に就職しました。 家が貧しかったので大学は国立じゃないとムリと言われていて、私立の代わりに試験科目も知らずぶっつけ本番で公務員試験
1990年代からレストラン情報、好きな言葉ではないが、いわゆるグルメ情報を発信してきた。 2020年代に入り、その性質が大きく変化したと感じている。 そのことについて書いてみよう。 僕が情報発信を始めた頃は、どんな店がどこにあるのかはタウンページ(という名称の職業別電話帳)が最もまとまった情報で、そこには、屋号、所在地、電話番号しか書いてなかった。 これではほとんど役に立たないので、店に行き、営業時間や定休日、どのような料理をいくらで提供しているのかを調べてインターネットで
インターネット上で議論になることがあるこの問題だが、僕の中では結論が出ている。 最初に、結論を述べよう。 一口食べてから検討するべし。 どういうことか? 当たり前だが、鶏の唐揚げといっても色々だからだ。 鶏の唐揚げはハズレが少なく、どこで食べても概ねおいしいという指摘もあるが、本当にそうだろうか? 実は鶏の唐揚げってとても難しい料理で、外国産の安くて水っぽい鶏肉を使っている店が9割以上。 柔らかくてジューシーなので唐揚げに適しているからだ。 つまり素材より調理の割合が高い料
お好み焼には豚肉を使うのが当然と思われるかもしれない。 しかし、現在のお好み焼のルーツと考えられている明治時代の肉天(牛天とも呼ばれた)には牛挽肉が使われていた。 明治初期は鶏肉が最も高価で、次に牛肉、最も安い肉は馬肉だった。 豚肉は鹿児島県や沖縄など一部で食べられていたが、一般的ではなかった。 しかし、本格的な西洋料理や中国料理が東京を中心に広まり始めると、徐々に豚肉が食べられるようになっていく。 大正7年には東京における豚肉の屠畜量が牛肉の1.4倍となり、庶民の料理であ
広島市におけるお好み焼の誕生秘話として、次のような話を聞いたことはないだろうか。 実はこの話をファクトベースで検証すると、完全に誤りであることがわかっている。 このことについては「熱狂のお好み焼」に書いたつもりになっていたけれど、精読しないとわかりにくいので(すみません💦)誤った認識が消えていないことに気づいた。 これはマズいと思ったので、明確に書き残しておくことにする。 食文化史では非常によくあることだが、感情に訴えてスッと頭に入る話ほど作り話であり、真実は往々にしてやや
※この記事は2020年2月の調査時点の内容です。 熊本市にはちょぼ焼と呼ばれるローカルお好み焼がある。 お好み焼という食文化がそれほど強くない九州地方において特異だし、何より作り方が圧倒的にユニーク。 これは食べてみたい!と思って調査に訪れた。 事前調査から、ちょぼ焼発祥の店は「福田流ちょぼ焼」で開業は1951年(昭和26年)だとわかった。 残念ながら2006年(平成18年)12月16日に閉店している。 品書きを見ると と書いてある。 ちょぼ焼の基本(素焼きと呼ばれ
2020年9月から始まった、僕が担当するイマオシ3(毎週月曜日)が2022年9月に終了した。 ちょうど2年だ。 コロナ禍のど真ん中でもあり、中断されたりもしたけれど、86回の放送があり、90店を紹介した。 どの店のどんな料理を紹介したのかは、一覧にまとめたので参考にしていただければ幸いだ。 以前は「街飯ヒストリーツアー」という不定期のコーナーを持っていたが、毎週定期的に出演するのは初めて。 最初のうちはわからないこと、知らないことが多く、加藤ディレクターや青山アナウンサーに
まな板が好きだ。 包丁も好きなので、セットで好きと言ってもいい。 正しく手入れしたよく切れる包丁を、清潔なまな板の上で使うのは気分が良くて楽しい。 そもそも台所仕事が好きというのもあるが、良い道具は仕事を楽しくする。 というわけで、新しいまな板を買った。 これまでは当面の繋ぎとして近所のホームセンターで購入した、薄いヒノキの集成材を使っていた。 しかし、これは荒仕事をする際のまな板になってもらい、これまで寝かせていたスギのまな板をメインにする。 道の駅で安く売られていて、ス
昭和の宴会料理の作法をご存知だろうか。 まず、着席前に料理がそこそこ並べてある。 それを前にしてエラい人の挨拶があり、別のエラい人が乾杯の挨拶をして、場合によってはさらに別のエラい人が乾杯の音頭をとって、皆で乾杯してから宴会がスタートする。 スタートするなり、料理が次々と運ばれてくる。 刺身、揚物、焼物、煮物などがどんどん出てくる。 客が食べるペースに合わせたりはしない。 テーブル上を賑やかにするため、どんどん品出しするのだ。 客のほうはその料理を横目に酒を飲む。 僕は初め
コロナが流行し始めた頃、数ヶ月だがフードデリバリーの配達員をやった。 その時は「熱狂のお好み焼」が出版された直後、コロナという新しい感染症が流行し始めて、ポカンと身体が空いたのだ。 僕は昔から飲食店を応援してきた。 僕の現在の立場は様々な飲食店の繁栄を基に形作られたものだ。 そのため、コロナ禍の売上減少に少しでも貢献しようと考えたのだ。 また僕は自転車での配達を選んだので、少しはトレーニングになるという目論見もあった。 今までは客として訪れていた飲食店に、フードデリバリー
久しぶりの札幌市訪問で行きたい場所があった。 「北海道博物館」だ。 アイヌ文化については漠然とした興味しか持っていなかったが、もっと知りたいと感じるようになったのは、漫画「ゴールデンカムイ」を読んでから。 北海道は、僕たちが学校で学んだ日本史とは異なる歴史を持つ地域だ。 例えば、縄文時代から弥生時代に入り、古墳時代を経て、飛鳥時代、奈良時代、平安時代と移行するのが僕らの知る歴史だ。 しかし、北海道には弥生時代がない。 縄文時代から続縄文時代、擦文時代を経て、鉄器を使うアイ
冷たい水が好きだ。 ノドが乾いた時は冷水が一番いい。 麦茶や炭酸水も悪くない。 でも僕が一番好きなのは冷水だ。 昔はあちこちの名水を取り寄せて試してみたりしたが、水道水に落ち着いた。 普通の水道水をブリタのポット型浄水器に入れ、冷蔵庫のドアポケットに入れて置き、それを飲むのだ。 今の時期だと、起き抜けに飲み、朝食を食べながら飲む。 昼間も渇きを覚えたら飲むので、台所にはデュラレックスのグラスを水専用で一つ置いている。 洗って水切り台に置いておくと、またそれを使って飲むの
昭和30年代(1955年代)まで、広島県内各地の多くのお好み焼店ではおでんが食べられていた。 僕が聞いた限りでは、広島市、呉市、尾道市因島、福山市などだ。 鉄板の上に置かれた鍋で常に温められており、お好み焼が焼き上がるまでの繋ぎに食べたり、大人が酒のアテにしていた。 この絵は広島市在住の画家、ガタロさんの作品だ。 1955年頃、広島市中区立町の路地にあった「大井」という店で、ガタロさんの同級生の母親が営んでいた。 そこにはこう書いてある。 確かに絵の左側に座った子供たちは
ネット上にそれほど情報がないにも関わらず、素晴らしい店を見つけた!と喜んで足を運んでいた。 もちろん、RCCイマナマで紹介するつもりだったが、店主曰く「大変ありがたいのですが、ウチは常連さんが多くて、その方々が入れなくなったら困るので…」とお断りされてしまった。 しかし、いい店なので何とか紹介したいなぁと思い、話をしていたらnoteに書くことについては了解を得た。 なので今回も300円でフィルタリングさせていただく。 場所は広島市佐伯区五日市のコイン通りを北上した辺り。
萩市に到着してすぐに訪れたのが、20年くらい前から行きたかった「ふじたや」という蕎麦店だ。 ここは原初のせいろ蕎麦を出してくれるのだ。 せいろ蕎麦とざる蕎麦の違いは海苔の有無と語られることがあるけれど、それ以前に器が違う。 蕎麦切りを盛る容器がせいろ(蒸籠)なのか、ざる(笊)なのかという違いだ。 蕎麦は元々せいろで提供しており、なぜせいろかというと、蒸したものを提供していたから。 つまり、蒸し蕎麦である。 それが改良され、茹でて水で洗い、それをざるに盛るようになった。 そ
2日目、朝食を食べてチェックアウトし、萩城跡指月公園へ行ってみることにした。 宿が武家屋敷群の中にあり、周囲を散歩してみたかったので、宿に車を置かせてもらって、徒歩で訪れた。 宿の周辺の生活道がこれなのだから、なんて豊かなのだろう!と驚くしかない。 石垣には溶岩石が多く使われていた。 萩城跡指月公園に着くと立派な石垣が現れ、内堀を渡る時に天守閣の跡地が見えた。 左端の出っ張った石垣を積んだ場所にかつて天守閣があり、後ろに見えるのが指月山だ。 さすがにお城の石垣は溶岩石では