「寄り添う」について分かったこと
昨日、【「寄り添う」ってどういうこと?」】というブログを書いた。
分かったことを書いたのではなく、分からないから書いた。
いろいろなところでコメントをもらった。
コメントくれた皆さん、読んで考えてくれた方々、どうもありがとう!
その中に、
寄り添ってほしいとは思わないけれど、一緒にいてほしい、味方でいてほしいとは思う。
というコメントがあった。
(文章少し変えてます)
もしかしたら「寄り添う」とは動詞としては存在できないのではないか。と思った。
適切な寄り添い方なんてない。
味方で居続けた人がただそばにいる。
それが「寄り添う」ことなのではないか。
「寄り添う」は形容詞としてでしかあり得なくて、いわば「寄り添いの仲」という意味合いでのみ存在できる考え方なのかもしれない。
では「味方で居続ける」にはどうしたらいいのだろうか。
誰かの味方でいることはある。
でもそこにトレードの関係が入り込んでないと言い切れるだろうか。何かの価値と引き換えに味方でいるというのは、味方で「居続ける」ことにはならない。
価値提供が絡んだ時点で永続性を失う。
たとえば子供に対する愛情は永続的だ。
なにかしらの価値提供と交換ではない。
「味方で居続けること」は受け取る側にとってありがたいことであると同時に、「居続けさせてくれること」自体がとてもとても心地いい。
でもそこまで人を信頼できるだろうか。
信頼って「信じて頼る」と書くけども、頼った結果上手くいかなかったとしても信じ続けたいと思えること。
そういう関係を作りたいし、そう思える自分でありたい。
これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!