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演劇『ぽうく』日記 その2 演劇とコミュニケーション

カフェ「マメヒコ」オーナーの井川啓央さんの舞台、『ぽうく』に出演する。

ぼくは演技経験が全くない。


未経験者として舞台に出る。という経験はもうできない。だから、お稽古を経て学んだこと、感じたことを振り返っておこうと思う。

その1はこちら

※緊急事態宣言発令に伴い、1/30.31開催予定でしたが延期が決まりました。購入してくれていた方申し訳ございません。
講演は4月を予定しています。
また改めて告知させてください。


2021.1.6

通しの台本読みを行った。
前回の本読みから校正がかかっており、役柄の変更もある。そして通しで読むのも初めてだ。

とても面白い。
演じる以前に内容に興奮した。

シーン毎に読み合わせをしていく。
前回は、そもそも台本読みがどういうものかも分からなかった。

一切指示が入ることはなく、通しで読み進めていった。

自分ではない人物になり、自分で考えてはいない言葉を話すのは面白い。


どういう気持ちで話しているのか?
相手に抱いている感情は?


自分の言葉ではないので、不安を抱きながら読む。

一通り読み終わる。
すごく感情を抑えて話をしている自分に気づく。


どこにもいない誰かを創るという行為は面白い。
同じ場面で同じことを話していても、想定される感情が違うということがわかった。

同じ「はい」と言う場面でも、「承認」なのか「不安」なのか「疑い」なのか、背景はいろいろだ。同じ脚本を読んでいても、違う理解をしていることも多い。

仮のキャラクターを設定することで、同じ言葉でも背景が大きく違うことに気づいた。

日常生活でも全く同じことが言える。

「月が綺麗ですね」と言われて、月を見てはいけないこともある。

言葉は2面性を持っていると思う。

ひとつは伝えるツールとしての言葉
もう一つは差を知るツールとしての言葉

言葉は伝えたい気持ちの全貌を削りとってシンプルにしてしまう側面がある。「好き」という気持ちを「好き」と表現した時、元々あったはずの「好きの中の嫌い」がなくなってしまう。

一方で言葉の使い方の差によって、相手を知るツールにもなる。
表情や動作は十人十色だけど、言葉は一旦の共通性がある。「好き」という言葉は内包する意味の違いはあれど「好き」ではない言葉にはなり得ない。共通の言葉を使うことで差が浮き彫りになる。差を通じて相手を知ることができる。

メッシとマイケル・ジョーダンのどちらが上手いかを考えるより、メッシとマラドーナの方が比べやすいのと一緒の理屈だ。

脚本に書かれた長い長い言葉の列は、人と人の間にある差を感じる、格好の材料なのかもしれない。


おしゃべり版もあります。
よかったら聴いてみてね。





これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!