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しんまい演劇日記「私が演じるのか、私で演じるのか」

おしゃべり版はこちらです↓


どもどもしゃびです。

演劇をやったことも観たこともほぼない私しゃびが、5/1.2に『ぽうく』という演劇の舞台に上がることになりました。
「しんまい演劇日記」では、稽古を通して得た気づきをアウトプットしていこうと思います。演劇理論などを知っているわけではもちろんありません。正しいかどうかはさておき、僕が感じたことを感じたまま発信したいと思います。



稽古が始まり、セリフと動きを合わせることの難しさを感じ続ける日々。

日常、自分の動きを直されることなんてないので、演出が入れば入るほど、何をやっているのか分からなくなっていった。

何が何だか分からなくなり、右手右足で歩いているような感覚。体の動きに気を取られるあまりセリフは飛んでしまうし、こんなんで本番を迎えられるのだろうかと心配になった。

ある日演出家の井川啓央さんから、

「もう2トーン声を低くしてしゃべってみて!」

と言われた。

戸惑いながら違和感ありありでやってみた。

「いや、もっと低く。」

話したことがないくらい低い声でやってみる。

「おおいいじゃん、全編それでやってみよう。」



うそでしょ…と思いながら、
仕方ないので、全部声を落としてやってみる。



すると不思議なことが起きた。
声のトーンを落としたらめちゃくちゃやりやすい。

もはやこれは自分ではない誰か、という感覚を抱いた。

今までは自分がコック(役名)になっていたため、直されれば直されるほど自分から離されていく違和感を持っていた。

僕はこんなコミュニケーションの仕方しないから難しいなぁ。あまり抱いたことがない感情だなぁ。みたいに。

離されると役が自分から縁遠い存在になり、やってて気恥ずかしいし、言われた通りにやろうとするから、下手なダンスを踊っている気持ちになる。

でも声を変えたことで、自分ではない別の人間だと感じるようになった。キャラクターの着ぐるみを着ているような感覚。

役は「自分が」演じるのではなく「自分で」演じるとやりやすいようだ。


「自分で」というのは言い換えると「自分を使って」という意味だ。

演劇に限らず、表現全般の認識を覆す大きな気づきだった。

僕は他の誰かになることはできない。
だから、いくらキャラの着ぐるみを着ていても、僕のこれまでの体験からアウトプットをするしかない。本当はいろんな人の体験をインストールしたいけど、そんなUSBポートは僕の頭についてないので、無理だ。


人には身体の拡張効果があるという。
たとえば、車に乗っていると急に気が大きくなってしまう人は、車が自分の一部になってるからだ。

子供が戦隊モノのヒーローになりきって、楽しんでいるのは、ヒーローに拡張されているからなのだと思う。

もし、車が自分と同じスピードでのろのろ走る乗り物だったらどうだろう?ヒーローが自分と同じだけの腕力しかなかったらどうだろう。


大変やりづらいと思う。
自分であるしかなくなってしまうから。

気の小さい人に限って車に乗るとイキリ倒す事実は「強くなりたい」という弱者の願望が、車の運転という拡張効果によって表現されているのだと思う(慣れない拡張効果を日常で獲得すると、問題も起きるので要注意という話でもある)


コックのキャラクター自身が、当て書き(役者に合わせて役を作ること)されたもの、ということもあり、自分から離れない方がやりやすいと思ってた。
でも実は、離れていた方が自分自身と切り離すことができてやりやすい、というのは大きな気づきだった。

「自分がキャラを演じる」のではなく「自分を使ってキャラでいる」ということだったようだ。

当て書きとはキャラクターではなく、内面を当ててくれたものなのだと理解した。

僕という道具を使おう。


ということで、引き続きしんまいお稽古頑張っていきたいと思います。

ではではまた。


これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!