正論を振りかざさないためには、どうしたらいいのか。
正しさに囚われるのはやめたい。
一つの正しさとその他の間違え、という図式なんてほとんどないから。
意見を言うのは大事だ。
いいねいいねと周りの話に合わせてばかりの空間だと、それはそれで同調圧力に繋がる。
でもたった一つの正しさのプロセスを用いて、相手をねじ伏せるのは違うし、プロセスが見つかってないからといって、間違えているとも限らない。
なのに「正しさ」を理屈にして、強行に物事を推し進めようとしてしまう時がある。
どういう時にそのようになってしまうのか、を知っていたら抜け出せるかもしれない。
正論に囚われるのはどういう時だろう。
2つあると思った。
一つは、脳がサボろうとしている時。
正論とは「知っていること」と「出来事」を繋ぐ行為だ。「知らないこと」という要素もあるはずなのに無かったことにして、繋げることで一つの正論が出来上がる。
疲れている時、焦っている時、イライラしている時、どうしても通したい主張があるとき。
脳が「早く結論を出せ」と急かしている時ほど、正論でまくろうとする。
寝坊をして会社に遅れそうになった。
慌てて準備をしている時、妻に「使ったタオルはすぐに洗濯カゴに入れてほしい」と注意された。
「今急いでるから無理!」と突き返す。
「急いでるの見れば分かるよね!今聞くべきじゃないことくらい察してほしい」とロジックを簡単に組み合わせた結果の対応だ。
冷静に考えてみれば、あとで注意されたところでどうせ忘れているのだから、その場で言うしかないのも分かる。
もう一つは、痛みを抱えてる時。
痛みから逃れたい。と思えば思うほど、結論ありきの思考に陥る。
ぼくは「普通〜だよね」と言われると大変イラッとくる。「普通だからといって正しいは限らないではないか。普通じゃないものから、より良いものが生まれるかもしれないのに。」と前のめりにつっかかりたくなる。
ぼくは高校生の頃「普通になる」という目標を持って生きていた。変わった行動をとって痛い目に会ったことがあるからだ。
でも仲の良い友人に「お前変わってるよね」と言われ「普通である権利を永久に失った」と絶望した。
今は普通であることへのこだわりはない。
でも、痛みは残ってる。
「普通になれなかった」という経験が、挫折のイメージとしてまだ心の中にある。
正論は「唯一の正しい論」では決してなく、「自分にとって都合の良い論」だ。正論同士がぶつかり合ったら、なにも解決しない。
正論を言いたくなったら、脳に余裕がないか痛みがある時かもしれない。メンタル黄色信号の時だ。
口に出す前に脳の不調をチェックしようと思う。
おしゃべり版もあるよ!
よかったら聴いてみてね。
これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!