クリスマスに「信じる」について考えてみる
みなさんメリークリスマス!
クリスマスはキリストの誕生をお祝いする日だということだけど、生まれた日ではないらしい。
ややこしい。
日本は宗教に疎いお国柄だけど、おめでたい行事としてはちゃっかり取り込んでいる。
ぼくも宗教に疎い。
カトリックとかプロテスタントとか真言宗とかスンニ派とかいろいろあるけれど、何をもってそれらを信じればいいのか分からない。
話は変わるけど、ぼくと父は話が噛み合わない。
それでも仲良しで、こないだも一緒にご飯を食べた。
なんで噛み合わないのかというと、僕と父で世界観が共有できないから。
先日父にある質問をした。
僕の幼少期の家庭環境に関することだった。
父なりの見え方を聞かせて欲しいと言った。
父は「それは難しい問題だ」と前置きをした後に、
「お母さんとお父さんは昔インドでね。」
と続けた。
ん??
「2人でインドに行ったの?」
「いや、前世は2人ともインド人だったんだよ。」
「あ、2人が生まれる前の話なの?」
「だから、昔って言ったじゃない。」
いつもこの調子なので、
ぼくはどういう気持ちで話を聞いたらいいのか分からなくなる。
だから会話をするときは前置きをする。
「ぼくは前世とか先祖とか守護霊の存在を踏まえて物事を考えることができない。だから、生まれた後だけの話をするね。」
一つの物事について話すにしても、僕と父では前提が違う。
ぼくは理屈の外に思考を凝らすのが苦手だ。
父は宗教人では決してなく、老後を楽しむ元編集者だ。ただ、思考が現世から離れているというだけ。
父と話がすれ違いながらふと思う。
何が正しいかなんて分からない。
ぼくが理屈をこねくり回している世界は、ものすごく小さい視点で、もっともっと俯瞰してみたら『2001年宇宙の旅』のスターチャイルドのようなよく分からない存在がいるかもしれない。
特定の周波数しか感知できない五感で得た情報と、思考の偏りから導き出した結論なんて、物事のたった一つの角度からの見え方に過ぎない。
12/25はキリスト教の特定の宗派にとってはキリストの誕生をお祝いする日だ。僕たちにとっては、ケーキを食べたりデートをしたりする日だ。
ところで「宗教」ってなんだろう。
僕と父とで物事の捉え方が違うように、人それぞれ世界を見ている角度が違う。
個々の角度選択は、
「この角度がベストだと信じる」と、盲信的になるより仕方がなく、理屈なんてない。
宗教とは「信じると決めること」なんだと思う。
プロテスタントが新約聖書を信じるように、ぼくらも多くのことに盲信的だ。
母子手帳に書かれた情報が僕のものであるかは確認してないけれど、ぼくはお母さんの子だって「信じると決めている」
インターネットのおかげでいろんなことの正解を確認できるようになった。一方で「正解だと確認できないこと」「慣れ親しんでいないこと」を「不正解」だと思うようにもなった。
キリストの誕生をお祝いする日に思うのは、「何かを信じると決めてみる」って自由で楽しいことなんじゃないかということ。
フィット感がなかったら、別のことを信じ直せばいい。
何かを信じて走ってみると、いろんな景色が見える気がする。
素敵な日の最後に今日公開の『映画 えんとつまちのプペル』からセリフを引用して終わりにしようと思う。
「お前ら見たのかよ。あの煙の向こう側を誰か見たのかよ。 誰も見てないだろう。 だったらまだわかんないじゃないか。」
みなさん素敵なクリスマスを。
おしゃべり版もあるのでよかったら聴いてみてね。
これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!