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「失意」を慰めてくれる川の畔

川は過ぎたこと、戻らぬことへの未練を忘れさせてくれる

「失意」という言葉を聞くと、私は大きな川のほとりを一人で歩いている情景をイメージする。人と共通に「失意」を感じるというケースはあるにしても、「失意」の場合はやはり一人でいるのがふさわしい。こういう時に川をイメージするのは、川は途切れることなく流れていて、人間の無常観を象徴するものだからだと思う。過ぎたこと、戻らぬことへの未練の思いを、知らず知らず忘れさせてくれるのが、川の流れなのかも知れない。
私は、大阪、京都、東京にそれぞれ長く住んでいたので、私にとっての川のイメージはやや分裂気味だ。「失意」のうちに川のほとりを歩く川のイメージは、大阪、京都、東京によって多少違ってくる。大阪に住んでいた頃なら、やはり「淀川」が一番しっくりくる。「淀川」の波打ち際に小さな池の様な水溜りが生まれる「わんど」という不思議な風景が、孤独な失意の心に対応してくれるような気がするのだった。

悲しみ、失意に沿って歩いてくれる大阪、京都、東京の川

ところで、京都にいた時代となると、すぐに「鴨川」が頭に浮かぶのだけれど、私は「鴨川」から10分ほどの距離のところに長く住んでいたので、「鴨川」と言えば、今出川近くで歩いて川を渡ることができる「飛び石」を思い出す。だから、「鴨川」と言っても、その親しさと馴染みやすさが先行して、「失意」の心理とはやや距離があるように感じる。それではどこかと言われると選ぶのが難しいが、私が考える次点としては「桂川」といったところか。川が「桂」の辺りで京都を離れて大阪に向かう別れの寂寞感が感じられるからだ。それとは別に、外から京都を訪れる観光客の視点から考えれば、「鴨川」などとは比較にもならない小さな流れでもあり、人の手で造られた運河だが、「高瀬川」は何となく「孤独」や「失意」のイメージに近いかもしれない。それだからこそ、森鴎外が「高瀬川」ゆかりの「高瀬舟」をモチーフとした小説を書いたのだろう。

東京は「隅田川」「多摩川」「神田川」の情緒が心を癒す

さて東京だが、私が東京に住んでいた頃は「隅田川」や「荒川」に歩いて足を延ばせるところに住んでいた。「失意」のうちに川のほとりを歩くというイメージならやはりその川は「隅田川」が一番近いと思う。やはり「隅田川」をモチーフとした物語、小説などは圧倒的に多い。古くは、平安時代までさかのぼるが在原業平作と言われる「伊勢物語」、あるいは「更級日記」、ずっと後になるが永井荷風の「すみだ川」、三島由紀夫の「幸福号出帆」、横溝正史の「トランプ台上の首」、同じく横溝正史の「貸しボート十三号」などがある。やはりこの川には人の情緒に訴えかける何かがあるような気がするのだ。東京で有名な川としては、「隅田川」「荒川」の他に、「多摩川」「神田川」「中川」「江戸川」「目黒川」といったところだが、「失意」のうちにほとりを歩くという設定ならば、若い人には「神田川」、熟年の人なら「多摩川」もあり得るかも知れない。ただ、「失意」のうちに川のほとりを歩くというのは決して幸せな状態ではないので、次は「失意」ではなく、「うれしいときに歩きたい道」をテーマにしてみたいと思う。

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