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ぼくら弱者男性を救える真の民主主義に向かって

哲学者の東浩紀さんが執筆された『訂正可能性の哲学』を読むまで、ぼくは自由や平和、民主主義についてまったく疑ったことがありませんでした。『訂正可能性』を読んで初めて、ぼくたちが今置かれている社会が一種のピンチに陥っていること、それは社会や政治を根本的哲学的に考え直さなければならないことに気が付いて、愕然(がくぜん)としたほどです。本を閉じてから、この社会はこんなにも複雑で難しいものだったのかとため息が出てしまいました。

『訂正可能性』ではぼくらの社会のなかで見落とされがちな部分、現代で否定されがちな部分として、前半で「家族」のあり方が取り上げられていて、それが社会の基礎でありつつも開かれたものでなければならないとされています。はっとしました。ぼくは今まで市場経済こそが最善のものだと思い、名古屋の河村市長や竹中平蔵先生を尊敬してきたのですが、まったく家族という視点に欠けていたのです。やはり、今だけカネだけ自分だけで社会は回っていないということを哲学的な観点からも論破されてしまったという思い、今までぼくは何をしてきたんだという気持ちで頭がいっぱいになってしまいました。

実はぼくには難病の弟たちがいます。仮名を使わせてもらうと、ブルタダツオと言います。ブルタは実家にパラサイトした上でだらだらとアルバイトで40代を過ごし、ダツオの方は現在53歳で茨城のイカそうめん工場で最低賃金に近い時給ではたらいています。ふたりとも、メンタルでダウンした時期があり、いろいろなことに過敏な面がありました。

いわゆるネオリベで港区勝ち組タワマン住まいのぼくからすると、正直なところ二人とも病気を言い訳にし過ぎた不肖の弟たちだ、ぼくが結婚できないのもブルタとダツオのせいだと、同じ血を分けた家族であるにもかかわらず、いや、家族だからこそヘイトが溜まりに溜まっていて、たまに実家で会うと、プレステを投げつけ合ってケンカになったことも三度や四度ではありませんでした。ぼくは弱い者が弁解ばかりして努力しないのがゆるせなかったのです。

しかし、東先生の『訂正可能性』を読んで、本来の民主主義とは年収や病気などの数値やスペックでは測れない一般意志を志向するものであること、データや医療、世間の風潮がすべてではなく、またそれらは後から訂正される可能性があるものとして見直さなければならないことを学んで、ブルタとダツオの生き方、その根底にある価値観にも理解が必要なことを悟ることができました。

その結果、こないだ三人で町田のスーパー銭湯に行き、二人がしてきた苦労を実際に聞いて、思わずぼく自身涙を流し、長年いがみあってきた兄弟仲も和解させることができました。今では札束をいっぱい詰めた風呂に三人で一緒に入るほどなかよくなることができました。

これも『訂正可能性の哲学』がおしえてくれたことのおかげです。東先生ありがとう!

(1,183字、2023.09.30)

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