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うつになったこと、そこからの回復について。

しあん、「自己肯定感がない」という状態がどういうことなのか、そしてその状況を生み出した父親とのエピソードを教えてくれてありがとう。
1,500字超えるからと前後編に分けてくれたけど、前回の私の日記、3,000字超えてました…すみません。

そもそも、自己肯定感がない、とはどういうことなんだろうか。
「愛されていない」と感じること。
目の前の人に受け入れられていないと感じること。
自分の感じたこと、判断、意見に自信を持てないこと。
だから周りばかり気にして自分の意見を言えなくなること。
自分の可能性を信じられなくなること。
自分なんかができるはずがないと思うこと。
そうやって自分を卑下すること。
そして、そんな自分が嫌になり、
自分自身のありようを受け入れられないこと。

私が考えうるかぎりではこんな感じだろうか。
この文面を見ていると、そういえば少し前までは私もこんなことばかり考えていたな、と思い出してきた。

私は今年1月から8月までうつで休職していた。8月下旬から徐々に復職を開始し、来週にはフルタイム勤務に復帰する予定である。
うつと診断されたのは今年の初めだったが、もうずいぶん前からうつ状態だったのではないか、と個人的には感じている。

世間一般には「愛する」という行為をしているが支配的な母。
そこから経済的にも住居的にも独立するために、常勤職員へ転職し独り暮らしを始めたのが2018年9月。今から4年前。
母からの支配については散々周りに愚痴っていたため、独立できると周りに吹聴しては祝福してもらっていた。

しばらくは自分の裁量で自分の生活を構築できるという自由さに感動していたが、半年くらいして、自分自身で生活リズムをうまく構築できなくなる時が出てきて、月1回くらいずる休みをするようになる。
それでも友人と飲んだり同期と遊んだり、受け入れられていると感じるときも多く、何とか生活は回せていた。

2020年4月。
コロナ禍とともに部署異動し、飲み会はできなくなり、仕事は忙しくなった。
外へ遊びに出掛けることが友人とのつながりだった私は、つながりが絶たれたと感じ、一人で家で酒を飲むことが多くなった。
当然翌日に響くような深酒も多くなり、月に休む回数が増えていった。

オンラインでうまくつながっている例もちらほら出始め、それを模倣していろいろ友人や職場の知り合いや大学時代の部活団体でイベント企画に携わってはみたものの、どれも自分自身ではうまくいったと思えず、周りからの返答も少なくなっていき、周りに受け入れられていない、私には何もできないという無力感を抱えることが多くなった。

無力感はそれを忘れさせてくれる酒へと私を導き、酒が効力を発さなくなるとひたすら睡眠に逃げるようになった。
ベッドから出られない。
お風呂にも入れない。
臭くて醜い自分を想像すると外へ出られない。
デリバリーサービスで腹を満たす。
醜い。
醜い自分を受け入れられない。
どうすればいいのかわからない。
死にたい、消えたいという思いばかりが募り、どうしてこんな人生になってしまったのかと泣く夜。

昨年の冬には完全に調子を崩し、月の半分も出勤できなくなっていた。
そのころには職場の上司たちも何かおかしいと感じ、優しい言葉や面談が繰り返されたが、その優しさにかえって申し訳なさを感じ、何もいい効果が生まれなかった。
そうやって気遣わなければならない存在となってしまった自分自身を受け入れられなかった。「仕事できているよ」「大丈夫だよ」という言葉、周りに受け入れられてもらえる能力を自分が持っている、ということを信じられなかったのだと思う。(もちろん能力はなくてただの優しい言葉だった可能性もあるが)

そこから休職し、嫌だった実家にもどり、ひたすら寝て、春を迎えた。

父との時間が私を回復させてくれた。
週に1回図書館にいき本を借りつつ、図書館までの散歩道の中で野鳥を観察し、変化をいちいち報告してくれる父。
古墳や遺跡巡りが好きで、地域の小さな市立・町立民俗資料館へ行っては、その規模の小ささにがっかりしたり、内容の充実加減に感動したりしたことを報告してくれる父。
「汚い」とか「小さい」とか「地方だから」といった理由で中身を決めつけて軽蔑する母とは違い、父は自分の興味関心に従って動き、それが自分の満足いく結果にならなくても、それを失敗とは決めつけない。
そういう父のあり方に癒され、図書館や古墳巡りに付き合ううちに、こんなふうに周りの自然や物事の小さな変化に癒されながら生活することの大切さを学んだ。そういった人生を送ることが私の目標となった。

父に倣って図書館へいき、最終的に読めないかもしれなくてもとにかく気になった本を借りてみる、それを読み始めてみるということも、うつの回復に役立った気がする。
本に没頭するということによって、自分が嫌で受け入れられないという感情から一時的に遠ざかることができた。また、世の中にはまだまだ面白い事実が埋もれており、自分の知らない心のあり方、自分ができるかもしれない職業の知識を得ることができる本の可能性を知り、ひいては自分自身の可能性に思いを馳せることができるようになってきた。

母は、自分の理想通りに他人が動かなければ、その人を受け入れることができない人であり、自分の親切な行為に対する対価を求める人だったが、父はそうではなかった。
私が私のままで受け入れ、私が父に何も返せなくても優しい言葉をかけてくれた。それが受け入れるということであり、それをそのまま私も自分自身にやればいいのだ、と気が付いた。

私は独り暮らしができない、自分自身で生活リズムを維持するということができない人間なのかもしれないと今は感じており、それは実家から独立することを目指していた過去の自分の目標からすると絶望的な状態だ。
だが、こうやって私を受け入れてくれる存在を間近に感じながら日々を過ごせるのだから、しばらく実家で生活するのもよいかもしれない、と今は感じている。
それでもやっぱり家を出たいと思うかもしれない。
そうしたときにまた一人になってうつを再発するかもしれない。

先のことはわからないが、「受け入れる」ということを学んだ私は、また少し違った形で生きられるのではないか、と最近感じている。
これを自己肯定感と呼ぶのなら、確かに今私は自己肯定感が高いのかもしれない。
それを違うと思う人もいるかもしれないし、いい大人になっても独り暮らしができない私を憐れむ人もいるかもしれない。うつから回復できてよかったですね、と私の投稿を見て苦しくなる人もいるかもしれない。

まぁ回復できていると感じるのは間違いかもしれない。
まだまだ先のことはわからない。
そのわからなさを肯定的にとらえて、自分の人生を構築していきたいと考えている。

結論に迷っていたらまた3,000字近くになってしまった。すみません。

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