見出し画像

「自分を受け入れる」って、なに?

アダルトチルドレンについて書いた記事にめっちゃスキがついていてうれしい緑青です。
他の記事も少しずつスキがついたり、アクセス状況が分かったりして、届いているって実感できるのはうれしい。
ありがとうございます。
しあんからも長くてもいいとお墨付きもらったので、これからもどんどん長い記事書きます! 今回も3,000字超えだぞWoah!

さて、前回のしあんの記事で気になる言葉があった。

「可能性が広がっているときは、一方で閉じていっているときでもあるんだよね」

加藤シゲアキ『染色』より

そうなのかぁ、そうなのかなぁ?
「可能性」を「選択肢」に置き換えてみると、少し納得する言葉だった。

私たちは日々選択を行って生きている。
それを選ぶということは、あれを選ばないということである。
そういう交友関係を持つということは、ああいう交友関係には縁がなくなるということである。
そうした日々の選択の積み重ねが自分にとってどのような影響を生むのか、評価できるようになるにはしばらく時間がかかるだろうし、その評価も年齢や環境とともに変わっていくだろう。

私もつらい10年間だった。

学生時代、自分が就職している姿がまったくイメージできず、自分を売り込む就活という営業のプレッシャーから逃げるために院進学をしたようなものだった。
当然のごとくさっぱり研究というものができず、M2に至ってはほぼ引きこもり状態となってしまい、就活もできず、修論すら提出できず、半年留年した。
その半年で何とか修論を書き上げ、その後の半年で第二新卒として就活して就職した。

就職先はボーナスを菓子類で支給する超中小企業で、残業代も休日手当も出ない「やりがい搾取」のキラキラ企業もどきだった。1年で辞めた。

しばらく非常勤事務職員として過ごした。
自分でお金を稼げるから好きなように使った。
好きなように都内へ稽古に行き、好きなように旅行へ行き、好きなように買い物して飲み会した。
そうすると、銀行口座が底をつくから引き落としできないという通知が時々来るようになった。
母から苦言を呈される。「親に迎えに来てもらってよく飲めるわねぇ」
タクシーを使うようになった。「そのタクシー代で私たちにごちそうしてくれたらいいじゃない!」

ボーナスも支給されないし、手取り額自体が常勤職員として就職している友人と落差が激しくなっていく。必死に付き合おうと思っても、好きなようにしても、どうやってもうまくできない。
母とも衝突してばかり。

もう無理、何でもいいからとにかく常勤職員として就職して「一人前」に稼げるようになって、この家から出たい。
このまま私を搾取しようとするばかりに見える母と同居して、年を取っていって、その老後を一人で介護して、父のような優しい人はきっと早くに亡くなってしまうから母と二人きりになるだろう、介護のための私の人生、そんなのマジで終わってない?

そう思って転職活動して何とか今の職を得た。

と思ったのに、気づいたら母たちが住んでいるのと同じ自治体内の職場だった。だから一人暮らしの住居も近くにならざるを得なかった。
何これ? 私は何がしたかったの? 何やってるの?
結局母を介護する人生のルートに乗ってない?
今まで必死に頑張ってきたこととかその選択の結果がこれって何何これ本当に嫌だ。

と思っていたのが何年も前。
友人からはそうは見えていなかったと思うが、ずっと「うまくできない」自分が嫌で、自分が何なのか・何ができるのかが分からなくて、大して情報収集もしないなかでぐるぐる選択肢をこねくり回して絶望を繰り返すような、そんな地べたを這いつくばる気分の10年間だった。

よく「まずは自分を受け入れること」とか「とりあえず自分を肯定してあげることが大事」とかいうが、それってどうやればいいの?
「自分を受け入れる」って、具体的には何をやるの?
変わりたいと思っているのにずっと変われない、そんな自分がますます嫌になるのに、私はどうすればいいの?

そうやって自己嫌悪が底をついたのが、私は今年の1月だった。

休職して実家に戻り、何とか心療内科に通った。
5月にはリワークに行けるようになり(きっと私はかなり早いほうだろう)、同じような境遇の人たちと出会った。
緊張している面持ちの人も多かったが、皆「うつ病を抱えている人」には見えなかった。それを親しくしている先輩に話したら、「君も同じように思われてると思うよ」と言われた。そうなのか。
私はこう見えているのか。
「うつで休んでいる人」には見えないけれど、平日に駅チカを出入りしたりしてよくわからない人。その内実は何とか自分の日常に戻ろうと、そのための手がかりを掴もうとしている人。でも、営業のサラリーマンや主婦や散歩するおじいちゃんたちに交じって、街の日常に紛れることができているんじゃないか。
そうやって自分を客観的に見る(見ているか?)ことが、私の場合の「自分を受け入れる」への最初の一歩だったと思う。

次は、一人暮らしの家を完全に引き払って実家に撤退するか、一人暮らしを諦めないか、どうするか決断するときだった。
すぐに一人暮らし状態に戻れるように、実家に戻っても家賃を払って荷物を置いていた。
それが私の心の平安のために必要だと思っていたから、必要経費と割り切って家賃を払い続けていたが、この蓄積で一体どれだけ貯金できたのか、といった思いが頭をもたげ、リワークを始めたころには迷い始めていた。

いろいろな思いや経緯を一旦横に置いて、それぞれのメリットデメリットを具体的かつ客観的に書き出してみることにした。
すると、一人暮らしという環境やその時のアパートに私はそれほど魅力を感じておらず、実家暮らしでもリラックスして過ごせていることに気が付いた。それは前々回の記事でも書いた通り父のおかげなのだが、母の機嫌をとりつつ、気が合う父とも同居して暮らしていくことは、案外私の精神衛生上悪いことではないのではないだろうか?と思ったときに、「毒親介護人生」といったラベルが私の頭からぺろっ、と剥がれ落ちた。

それからは、いろいろなことを「具体的」に「書き出す」ということを意識して行うようになった。
これからの人生、私は一体どうすれば自分の心地のいい方向に人生を持っていけるのか? そもそも私はどういう状況を心地いいと感じているのか? 何を苦手と思っているのか? どういう状況の時に苦しいと思うのか?
その時にどうすれば自分の落ち込んだ気持ちの方向を変えることができるのか?
その時に書き出した言葉は、今も復職するなかで私を救っている。

今、私は
・忘れっぽくて
・抽象的な言葉が苦手で
・具体的に作業を書き出すと次のステップに進めて
・音楽をかけると集中しやすくて
・運転が好きで
・文章を書くことが好きで
・その文章が誰かの心に届くことがあって
・散歩できる緑豊かな公園が多い地元が好きになっていて
・誰かと一緒に生活することで生活リズムを構築する人間
だと自分を受け止めている。今後変わっていく可能性はあるが、今のところ、こういう形で私は「自分を受け入れる」ことができていると思う。
自分のことが嫌いだと思う時間は前よりずっと減った。すごく楽だ。

前は「いつになったらこんなつらい日々が終わるんだろう?死ぬまで続くのか?」と思いながら過ごしていた。
今はそんな10年間をつらかったなぁと振り返ることができるようになった。
次の10年で、どう評価できるようになるだろうか?

「毒親介護人生」からの「独居老人」「孤独死」へのルートはいまだ用意されているだろう。
むしろその可能性の足音は少しずつ大きくなっているかもしれない。
そしてどんな可能性が閉じていっているのだろうか?
それでも、その可能性をあまりマイナスに捉えすぎず、案外こんなもんか、と思える人生でありたい。

案外、そう思えるようになるかもしれないよ。
今はまだ信じられなくてもね。

(緑青)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?