闇だの忖度だのを無くせと言う人は本気なのだろうか

今日、2023年10月20日、歌舞伎俳優の市川猿之助氏の裁判が行われました。
この事件の第一報が出た頃、ネットの一部で、こんなコメントが出ていました。
「今こそJKTの闇を暴く時。膿を出せ」
J=ジャニーズ、K=歌舞伎、T=宝塚なのですが、ネットマスコミによると「絶対的な力関係を背景に問題が表面化せず、そのような問題が多い状況が長く続いている。もういい加減、そんな時代じゃないでしょう」ということらしいのですが、そもそも、閉鎖的だという指摘のようです。

芸能界の闇だの、忖度を無くせだの、訳のわからないことを言う人が増えて面倒臭い世の中になりました。
自分は大物プロデューサーなので、事務所との後ろ盾がなくても生きていけるという自慢フレーズがちょくちょく顔を出す松尾潔氏が「義理と人情」山下達郎氏にイチャモンをつけて絡んだ際にコメント欄のある記事を読むと、結構な割合で、こんな趣旨の事を言っている輩がいました。
「松尾さんのように芸能界の闇を正す人がいると世の中がよくなります」
一般人が芸能界の闇と称することの殆どは、なぜ自分の推しが落選して、自分が好きではない人物が主役・センターになったのだ?程度の事です。

閉鎖的ではない、開放的な芸能界って、何んでしょう?
これ、「分断が進む社会」というフレーズにも共通するのですが、では「分断が無い社会」って、どんな社会なのでしょう?
どうもそれがどんなものか、誰もわかっていないものを求めてませんか?

ジャニー喜多川氏の行為は犯罪です。それは間違いありません。また、ジャニーズ事務所が組織的に関与していた、また知っていて黙殺していた。これも考えられます。この辺りまでは、社会的な制裁の対象です。
でも、ジャニー喜多川氏に従わなかったから人気者になれなかった、自分の意にそぐわない若い芽を潰した、これはあくまでも想像の範囲でしかなく、それを証明することもほぼ不可能で、社会的な制裁の対象にはなり得ません。
芸能の世界は、指標化が難しい世界です。男女問わず、歌が上手い?/背が高い?/スタイルが良い?/かっこいい?/などなど、どれも数値化など客観的な判断はありません。どこかで誰かの主観で判断されて、商品としてのタレントが見出されます。よって、結果に公平感は殆どありません。

歌舞伎が世襲制の世界であることが問題なのでしょうか。歌舞伎俳優は外部からたくさんの参入者がある産業ではありません。産業を守るための仕組みが世襲なのです。それからパワハラ、セクハラは世襲制などの歌舞伎界の現状が生み出したものではありません。世の中に一般的に起こり得る““事件””の一つでしかありません。

だいたい取引先に忖度しないサラリーマンはいません。忖度とは、物事を上手く進めるためのツールであり、「他人の気持ちを推しはかること」という日本人の美徳の一つです。忖度が出来ない社会人は失格でしょう。
自分の思いが通らないと、パワハラだの、闇が深いだの言うのを認めると、キリがありません。社会の中では自分の思いはそう簡単には通らない、と教えましょう。
新入社員が配置先に納得しないで辞めるというのなら、その事に対策は必要ないと思われます。その分、補欠採用でも行ったほうが、社会のためです。

多くの一般人と称する人々一般が、真面目で日々の事に一生懸命な名もなく貧しく美しい人だと思い込んでいます。でも、このような人はほんの一握りです。人間一般、俗悪なものです。だいたい、まともな一般人は、北海道や東北の熊駆除に関して、可哀相だ、なぜ殺した、などという抗議の電話を自治体に掛けたりしません。
ちなみにこのような人々に、まともな説明をしても無駄です。例えば、公共反論センター(仮名)といった公共の苦情一次引き受け団体を設立し、全国の自治体、政府に掛かってくる無駄な電話を識別して、場合によってはガツンと反論しても良いのでは。

松尾潔氏の一方的な言いがかりに対する山下達郎氏の意見表明に「そういう人にわたしの音楽は不要でしょう」という言があった時、音楽は「みんなのもの」、「リスナーのもの」だという声も上がりました。これは全くの不遜。山下達郎氏の音楽は山下達郎氏のものです。僅かばかりお金を払って聞いているだけなのに、思い上がりも甚だしい。それなら、売れていない、知られていない音楽作品は誰のものなのでしょう。

よく出てくる「みんなの」という言葉が曲者です。「みんな(の中の自分1人)が理解できる」を意味しているのでしょうか。なんだか懐かしの運動会の徒競走で「全員一緒にゴール!」、「みんなが1位!」の時代が思い起こされます。こんな幻想的な平等社会が求められると浮かび上がってくるのが、1900年代にヨーロッパを徘徊していた怪物、共産主義的な考え方です。ここで、学術的にマルクス主義がどうのこうのという話はいたしません。

みんなで「シェア」する社会、一種のコミュニズム(共産主義)が提案されています。2020年に『人新世の「資本論」』という著書で一般人にも知られるようになった東京大学大学院准教授の斎藤幸平氏が唱える施策が不気味です。まず「脱成長=経済成長やGDPを追い求めるのを止め、環境や幸せ、平等を重視した持続可能な社会に転換していく』としてます。その上で、「所得上限設定=1億円ぐらいを上限に、それ以上儲けても国が持っていくようにする」。ちなみにメジャーリーグで活躍する大谷選手の所得を1億にしても良いとしています。
うーん、どうなんでしょう、この考え方。制限を作って、共有化するのは、失敗だらけの前例がありますよね。原因は、人はそれほど善良ではない、ってことだったと思います。これは、ネット社会と言われるようになってわかった事の1つでもあります。

NHKの受信料に関する議論が喧しいタイミングで、こんな書き込みをみました。
それはNHKのNHK交響楽団への補助金に関するものでした。
「NHK交響楽団は国民に対してどれくらい貢献しているのでしょうか。たまに放送される週1〜2時間の番組とたまに行われる地方公演くらいでは、それに値しないので、本当に必要だったら国営にしたらよい」
私はNHK交響楽団の賛助会員でも何でもないのですが、放送はほぼ毎週ですし、公演はかなりの頻度で行われていることを確認しない、この気軽でいい加減な書き込みが、いくつかの共感を得て、シェアされていることに恐怖を覚えました。

「眼鏡をかけているからインテリ」だとして殺害の対象にされた国をご存知ですか。1976年から1979年までのカンボジアです。その時期、ポル・ポトを指導者とする急進的な共産主義政権が確立し、国民全てが農業に従事する体制が築かれるとともに、この体制に疑問を呈するいわゆる知識人を虐殺しました。結果的に人口のおよそ20%が殺害される事になります。1984年公開の映画「キリング・フィールド」に詳しく描かれています。
何が言いたいのかというと、あり得そうもない事かもしれませんが、闇や忖度を嫌い、建前だけの「みんな」を尊重する流れが顕著な日本がポル・ポト政権化のカンボジアのようになるのではないかと思ったのです。
世界史の中でも、とりわけ想定外の失敗の道をなぞることだけは勘弁なのですが。

※10月24日、「2020年に著書『人新世の「資本論」』という著書で一般人にも知られるようになった」という文章の「著書」という単語を削りました。ちょっと変な文章になっておりました。お詫びして訂正いたします。

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