新宿回顧録①(1995)
学生時代は新宿でよく遊んでいた。
新宿はお世辞にも綺麗とはいえない街で、道にはたくさんのおじさんがダンボールの中で寝ていたし、いつも変なニオイがしていた。
軍服を着たお爺さんが黙って座って、お金を入れる箱を置いている光景もよく見た。
戦後50年、まだ戦争帰りの人たちがたくさん生きていた。
学校近くのファストフード店でよく宿題をやっていたのだけど、体長30センチはあろうかというネズミがカウンターから厨房に入って行ったのを見てから、その店に行けなくなってしまった。
駅前の大きな歩道橋に行っては、昼にタバコを吸っていた。学校の関係者らしき人が通ったりしないか、いつもビクビクしながら。
放課後は同級生たちと歌舞伎町のミスドに行って飲茶を食べていた。
コマ劇の方にあるアマンドは、入ったことはなかったけど、外から見える店内にはちょっといかついおじさんと、綺麗なお姉さんがいたりした。
クラスの飲み会はだいたい歌舞伎町の入り口にある、安い居酒屋だった。とにかくみんな若いし、金がなかった。
いつもどこかから、「1時間800円!」というナレーションが聞こえているのだった。
今よりも、歌舞伎町は若干治安が良かったように思う。もちろん歌舞伎町だから怖い人たちもいたけど、その怖い人たちが街を治めてた印象がある。
私の通っていた学校は、本当にいろんな人がいた。
出身地も国籍も年齢すらバラバラ。下は16歳、上は40歳くらい。
阪神大震災で家がなくなって上京してきた人、歌舞伎町のストリップ小屋に住み込みで働いてる人、学生寮に入っている子、埼玉の実家から通う子。
それまで私はそこそこ偏差値の高い高校にいたから、カルチャーショックがすごかった。
地方から出てきて一人暮らしや寮にいる子とは、遊び方がどうしても合わない。
夜職をやっている子も多かったから、お金の価値観も合わなかったりして、一緒に遊ぶにしても、それには付き合えないな、というものもあった。
いろんな人種が集まる学校だったからか、校則が厳しかった。
大人相手に校則があるのだ。
そうでもしないとまとまらなかったのだろう。
そして私学なので、「学長の言うことは絶対」という独裁国家のような状況にあった。
女子に限り禁煙、という規定には、女性差別だ!とみんな怒っていたものだ。
アート系の学校だったので、それはそれはみんなオシャレだったのだけど、ビジュアルが仕上がっている子も多く、見ていると吸い込まれそうな美しいお顔立ちの子もいた。
その子はパンクスの同級生(通称モヒカン)と付き合い始めてから、洋服の趣味が彼氏寄りになっていったのだけど、可愛かったお顔にだんだんクマが見え始め、言動に不安定さを感じるようになった。
さっと袖を捲ったときに、タトゥーが彫られているのを見た。
「えー、かわいいー、いつ入れたん?」
「先月かなあ」
友達に聞かれてそう答えているのが聞こえたが、日に日にタトゥーは増えていき、服で隠れないところにも見え始めた。
クラスでは、学級崩壊が始まっており、私たちの担任は主任級の先生だったのだが、それでも手を焼いていた。
お昼頃になると暴れる男子たちが何人かいて、午後には大人しくなるかすでに帰っていた。
「ねえ、あいつらトイレで注射打ってるっぽいんだけど」
そんな噂が流れてきたのは後期が始まった頃だったろうか。
「え、それって……アレ?」
「アレ以外でそういうのある?病気とか?」
「病気だとしたら集団ではやらないでしょうよ」
モヒカンもその仲間にいた。
テンションが振り切れている男子たちと、彼らと一緒にいる彼女。
もしかしたら……と思った。
ボロボロの服を着るようになり、目の周りを黒いメイクで覆うようになった彼女たちは、だんだん学校に来なくなった。
この学校は本当に課題が多く、私もついていけなくなったので、のちに辞めてしまうのだけど、この環境で、きっちり卒業した人を私は尊敬する。
「学生ローンって知ってる?みんな金がなくてそこから借りてて、ちょっとやべえ人に握られてるらしいんだよ」
友達が言うには、その金を貸している人から「何らかの、ヤバいかもしれないもの」をセットで受け取っていると。
「ねえ、これ先生に言ったほうがいいかな」
「大ごとになりすぎない?」
「学校なくなるかもよ?」
「それは、嫌かもね……」
思考停止に陥ってしまった私たちは、同級生たちが変わっていく様をただ見るしかなかった。
(つづく)
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