文章家じゃない

私はライターだけど、文章家じゃない。

 私は去年、宣伝会議の編集・ライター養成講座に通っていた。
通われている方の中にはたくさんの本好き、物書き好きの文学女子&文学男子の割合が多かった。

 そんな文学女子&男子からは、「どんな小説読むの?」とか、「好きな作家さんは?」とか、共通の話題だろうということを前提に聞かれることが多くあった。

 実は私は、全く文学系ではない。

 だが、文学ジャンルも好きだし、日本語の美しさにも惚れ惚れするし、そういった文学に詳しい人、文学のおもしろさがわかる人には憧れもあったりする。

 だからこそ、そういう質問をされると、返事に困るとうか、正直に答えるのが恥ずかしかったりもする。

「実は小説とか全く読まなくて・・・。」
「好きな小説家さんもエッセイストさんとかも特にいなくて・・・。」
「しいてあげるとすれば、その中でも、ベタだけど、東野圭吾さんは好きかなぁ。・・・。」

なんて、お決まりの回答。

 こんな回答をすると、どこかに共通点を見出そうとして質問してきた文学系の方達は、一瞬言葉に詰まる感じを見せる。

・・・。

 あぁやっぱり。。。

話が合わなくてごめんなさい、って思う。

・・・

 先日、文学系の友達と話していた時のこと。

 ある作家さんの言葉を取り上げて、こういう事を伝えてくれた。


「(その作家さんは)『私、書くの遅いんだよね。』って言ってた。

きっと一文字一文字、言葉を丁寧に選びながら書いているのだろう。」


その子の言葉を受けて、

あぁ。私は文章家じゃないなぁ。

と思った。

 文章家という言葉を辞書でひくと、
→ 文章を上手に書く人。文章を書くことを職業とする人。

と書かれていたけど、

私がここで使った意味としては、
文章家=“言葉”にこだわりたい、という意思のある人。

 改めて考えてみると、私は全くというわけではないけど、言葉にはそこまでこだわる意思はない。

 文章を書いている最中には、3つぐらいの単語の選択肢は常にあり、その3つの中でどれが最適か、ぐらいは考えて作るが、この思い、この状況を、どういう表現にしたらより正確に伝えられるだろうか、というような、例えば助詞1つ1つにまで目を配ろうという気はない。

 それはもともとわかっていたり、割り切っていたことでもあるけれど、正直、宣伝会議で出逢った、文学に詳しいお友達や、これから文章を書いて仕事にしていきたいと志している仲間と話をしていると、迷いが生じたりもする。

 もっと小説を読まなきゃ。作家さんにも詳しくならなきゃ。
自分の中にももっとたくさんの表現のデータベースを作らなきゃ。
0から自分の文体を探さなきゃ。

とか。

 そう思って、図書館に行っておすすめされた小説なんかを借りて読んでみるものも、やっぱり興味が持てない。読み進められない。

結論がわからない文章を読むのがツライのだ。

 そういった本よりも、やはり私は自分の好きな分野のハウツー本だったり、実用書を読みたくなってしまう。

 まぁ私はエッセイストになりたいわけでも小説家になりたいわけでもないしな、と割り切っていたが、それでも1割ぐらいは、これでいいのかという葛藤は常に抱えていた。


 そして今日、その葛藤を打ち消してくれる言葉に出逢った。

今勉強中のカメラの教科書の本の表紙を開いた冒頭に書かれていた言葉。

基本は、
「学びたくないものは学ばない」
「覚えられないものは覚えない」
「こうしたらこう写ったということを、
理屈でなく体で覚える」
ということ。

この本は、大好きな写真家さんの本で、その写真家さんの言葉。

写真のプロの方が、これから写真を学ぼうと方にむけて、
「学びたくないものは学ばなくていい」と言い切っちゃうこの潔さ。


物書きについても同じだと思った。

 私はライターだけど、物書きの仕事も幅広いわけで、言葉の繊細さが求められない文章だってたくさんある。

 私は言葉そのものよりも「構成」に重きを置いているし、構成力が活きてくる文章のジャンルはたくさんある。

だから、私は私。学びたいものだけ学んでいこう。

小説も、また読みたくなったタイミングが来たら、読めばいいや。

そんな、気持ちを軽くさせてくれた言葉。



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