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ブラウン×ネイビーのバッグ

まだ、あなたのことを意識をしていなかったときのこと。

本館から少し離れた別館の2階の扉を開けようとしたら、あなたが外から中に入ってくるところだった。明るい外の光が眩しかった。

誰かいるなんて思っていなかったから、不意に私の口から出た言葉は、自分でも意外なフレーズだった。

「ネクタイ、茶色なんですね。素敵です」

「あっ、ありがとう。そっちこそ、営業力あがってきましたねー」

少し照れた様子は一瞬で消え、茶化した言葉でさらりとかわされた。

ネイビーのスーツとブラウンのネクタイの組み合わせは、どこか新鮮でいいなと思ったし、似合っていると思った。

なで肩でどこにもいそうな細身のシルエットなのに、その先どこの街を歩いていても同じ佇まいをしている人は見つけられなかった。

入社のときに買ったバッグ。ネイビーの布地にブラウンの革ハンドル。無難だからと持っていたけれど、あまり好きになれずにいた。

席に戻ると、このバッグが足元にあった。同じ配色だった。これも悪くないなと思えるようになった。

それから何かあったわけでもない。ただの上司と部下。それだけだった。外回りの途中にご飯を食べたり、お茶をしたり、大人数で飲みに行くことも普通にあった。

信頼のできる人。私の使う言葉を理解してくれる人。だから、仕事の悩みも聞いてもらっていた。

帰りのエレベーターが一緒になって、一杯飲んでいくかという話になった。人目を一応気にしてくれたのか、いつも行く居酒屋ではなく、静かなお店に連れて行ってくれた。

黒い内装の和居酒屋。ランチで来た昼間とは雰囲気がだいぶ違ったし、案内された先が個室だったから少し緊張してしまった。

話は仕事のことがほとんどだった。3種類くらいの梅酒を順番に飲みながら、楽しい時間が過ぎた。

コーヒーよりは紅茶、ビールよりはサワーやハイボール、梅酒。お互いにそういう好みだってことを知っていた。

会話が途切れそうになると、私が質問をする。「うーん、そうだな」と考えながら丁寧に返事をしてくれて、そのあとに必ず聞き返してくれる。でも、私が答えに困りそうなことは聞き返さない。そんな人だった。

店から出て、駅に向かう。私は、ブラウンとネイビーのバッグを持っていた。左肩に掛けていたけれど、右に掛けなおしたタイミングで、左側を歩いていたあなたの右手が私の左手に触れた。

顔を見上げると、「大丈夫」と微笑むから、私も「うん」と頷いた。秋のはじめ、夜になると空気が冷たく感じた。

この角を曲がると駅だというところで、あなたが立ち止まった。私の前に立っていた。顔を見上げてはいけない気がして、しばらくそのままでいた。

あなたの腕が私を包むと、「こうなると思っていた」と私もカバンごとあなたの後ろに手を回した。

「ずっとこうしたかった」そんな想いが込み上げてきた。手首が重いと感じるまで、しばらくそのまま立っていた。

人通りが少ない道だったけれど、人が通り過ぎるのを感じた。

「誰かに見られたらどうするの」そう言って体を離すと、あなたの顔を見上げていた。

「キスしていい?」

私は、バッグを手から放してしていた。

目を開けると、あなたの顔があった。恥ずかしくなって顔を埋めると、あなたは私の髪をなでた。

この先、私たちはどうなるんだろう。今までと変わらずにいられるんだろうか。

そんなことを聞きたくなって顔を見つめると、見たこともないうれしそうな顔をしていた。だから、先のことはどうでもよくなってしまった。

背伸びをして、あなたの首に手を回してキスをした。

ブラウンとネイビーのバッグを拾いあげて、お互いの家に帰った。





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