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【沖縄慰霊の日6・23】~沖縄の心を私は忘れない~


 
紺碧の空と、エメラルドグリーンの透きとおる海に取り囲まれた
691個の『沖縄』の島々。 それは珠玉の オーケストラのごとく
400種以上の珊瑚が織りなす大規模なサンゴ礁と
北へ向かうコバルトブルーの黒潮とが響き合って
世にも美しい協奏曲 (コンチェルト) を奏でています。
 

 
豊かな自然に恵まれた沖縄は ≪東洋のガラパゴス≫ とも称され
7600種以上の動物と、2000種以上の植物が生息する、まさに大自然の宝庫。
イリオモテヤマネコ・ヤンバルクイナ・ジュゴン
などの愛くるしい希少生物。
マンゴー・パパイヤ・ドラゴンフルーツ・シークヮーサー
などの南国 フルーツ (=トロピカルフルーツ)。
カクレクマノミ・チョウハン・ナンヨウハギ
などの色鮮やかな熱帯魚。
マンタやウミガメやクジラも皆、沖縄の大家族の一員。
 

 
古くから沖縄には『命どぅ宝』(=命こそ宝もの) の精神があります。
自然や生命への畏敬を基本とする沖縄の文化が
命(ぬち)どぅ宝…の精神と結び付き、人々の行動の支えとなっているのです。
 

 
ちなみに『イチャリバ チョーデー』(出会う人は皆きょうだい)とか
『チムグルサヌ』(対等の立場で苦しみを共有し合う)とか
これらもまた沖縄の精神を映す言葉であり、広く使われています。
 

 
さらに沖縄は『歌と踊りの島』と呼ばれるほど、歌と踊りが盛んな場所。
“手踊り”と“指笛”と“ハヤシ声”が どこからともなく
沸き起こってこない日が無いほどに
全員で喜びや楽しみを共に分かち合います。
そんな純真無垢な姿に触れ、沖縄県民のあたたかい『心』に
誰もが感動させられることでしょう。
 

琉球舞踊

 
琉球舞踊および組踊り(=歌舞劇)をはじめとする伝統芸能や
芭蕉布(ばしょうふ)・紅型(びんがた)・三線(さんしん)などの伝統工芸も
遠い ≪琉球王国≫ からの伝統を受け継ぐ、きわめて貴重な文化遺産。
 

 
長い歴史と世界一の規模を誇る沖縄各地の『大綱挽(おおつなひき)』や
夏を代表する風物詩としての
『エイサー(ダイナミックな踊りと太鼓の迫力がすごい)』や
ドラゴンボートによる勇壮な競漕が醍醐味の
『ハーリー』などの伝統行事も見逃せません。
 

 
もちろん、長寿県・沖縄ならではの郷土料理も
ほっぺが落ちそうなほど美味しいものばかり。
サーターアンダーギー(沖縄ドーナツ)・カーサムーチー(健康長寿祈念の餅)・ヒラヤチー (=平焼き)  それから、ソーキ汁・ラフテー・ポーク卵・
ゴーヤチャンプルー (これは全国区) …等々。
みなさんも、何度か食されたことがあるかも知れませんね。
  


数えきれないほどの郷土料理は
沖縄でしか収穫できない食材もふんだんに使われていて
『一度食べたら、やめられない』…とは
こんな場面での “せりふ” なのでしょう
日本のかけがえのない『宝』である沖縄の魅力を探れば探るほど
胸が熱くならずにはおれません。
 

琉球王国・首里城

 

ところが そんな沖縄で、今から79年前に生き地獄のような出来事が…。
硫黄島と合わせて国内で唯一の “地上戦” が行なわれました。
太平洋戦争さなかの 1942年6月にミッドウェー海戦で
日本海軍が大敗北をすると、1944年7月にはサイパン島
翌年2月には硫黄島が陥落し、米軍の次なる日本本土攻略の
足がかりとして標的にされたのが沖縄でした。
 

 
米軍は1945年3/26に、沖縄本島すぐ西の慶良間諸島へ上陸して
補給基地を確保した上で 4/1に本島へと進軍し
島民を巻き込む3か月余にわたる血みどろの戦いが繰り広げられたのです。
読谷村・渡具知海岸への米軍上陸に先立ち
周辺の海岸一帯はすでに“瓦礫の山”と化していました。
艦砲射撃と爆撃による約10万発の砲弾やロケット弾が
打ち込まれていたために。
 

 
米軍側は40隻の空母と30隻の戦艦を含む約1500隻の艦船や上陸舟艇および
水陸両用車など、水平線まで黒々と埋め尽くすほどの圧倒的物量を背景に
約18万人の上陸部隊と約37万人の後方支援部隊 (海軍部隊) を擁して
(=合計約55万人) 押し寄せてきました。
戦車を先頭に歩兵が突撃し、火炎放射器、爆雷、ガス弾などで
日本軍の地下陣地をも  ひとつ残らず潰していく戦術です。
 

 
それに対する沖縄本島・日本軍の当初の総兵力は約7万5000人。
のちに約10万人まで増員したものの 兵力不足を補うために
15歳から45歳までの沖縄島民が招集され『根こそぎ動員』されました。
師範学校、中学校、専門学校、高等女学校の生徒までもが
徹底的に総動員されたのです。
 

ひめゆり学徒隊

 

しかし米軍との戦力格差は歴然で、武器、弾薬、食料の乏しいなかを
十分な戦闘訓練も受けられず、竹やりや急造爆雷を持って
米軍戦車に体当たりするのが精一杯の絶望的な戦い。
正規兵でさえ、夜間の斬りこみや、同様の肉弾戦術の他に為す術もなく
戦いの凄惨な結末は、火を見るよりも明らかでした。
 

 
陸上からは米軍の砲兵部隊と戦車部隊に砲撃を加えられ
海からは艦砲射撃によって集中砲火を浴びせられ
『鉄の暴風』と呼ばれるほどの
熾烈さを極める“地獄絵”さながらの殺戮戦争だったのです。
持久戦に持ち込んででも米軍の日本本土進攻を少しでも遅らせ
本土決戦準備の時間稼ぎのための“捨て石”として
位置づけられていた戦争でもありました。
 

 
この戦争では罪の無い大勢の島民が
避難先である各地のガマ (自然洞窟) などで集団自決を強いられました。
『生きて虜囚の辱めを受けず』との考えや
『敵に投降する者はスパイとみなして射殺せよ』との軍からの命令もあり
家族ぐるみで集団自決に追い込まれるケースが続発したのです。
日本軍は島民を守れず、米軍にも投降できず、極限状態のなかで
家族らが身を寄せ合って手投げ弾を爆発させたり
鎌やカミソリで互いに手をかけ合ったりして自ら命を絶ちました。
 

 
地域の多くのガマは、上質なほど軍事目的で軍に接収され
ガマを追い出された島民は新しい避難所を求めて
戦火の中をさまよう一方で、ガマの提供を拒んだ島民は
『皇軍』に非協力的として処刑されていました。
ガマだけでなく学校・公民館・民家も接収され
資材や食糧などの供出も頻繁に行われていたのです。
なおも島民は日本軍の陣地や飛行場等の構築にも
勤労奉仕として連日動員され、体力面でも荷重の負担を強いられました。
 

 
沖縄戦開始前の1944年8月には、疎開学童約800名を乗せた『対馬丸』が
米軍潜水艦の魚雷攻撃で沈められました(死者1476名)。
沖縄戦終戦間近には、米軍の包囲網の中に放り出された
『ひめゆり学徒隊』136名の若い女性たちの命が散りました。
ひめゆり学徒隊以外にも、白梅学徒隊・なごらん学徒隊・瑞泉学徒隊・
でいご学徒隊・宮古高女学徒隊・八重山高女学徒隊
または鉄血勤皇隊、特志看護隊、少年兵ゲリラ部隊なども編成されており
多くの悲劇が生まれました。
日本軍の “負けいくさ” の事実を、誰ひとり知らされることもなく…。
本来は国家から守られなければならないはずの子供や学生たち。
軍の隠蔽工作により、『日本が米国を打ち負かしている!』として
新聞もラジオも 嘘の情報を国民に宣伝していたのです。
忘れてならないのは、島民 (民間人) の4人に1人、あるいはそれ以上が
戦争で尊い命を奪い取られたこと。
 

 
終戦後の1951年9月、サンフランシスコ講和条約が調印され
連合国の占領下にあった日本は独立国として主権を回復し
国際社会に復帰しましたが、その代償として沖縄は日本本土から切り離され
米国の施政権下に置かれました。当条約が発効した翌年以降の4月28日を
『4・28』として、沖縄では“屈辱の日”と呼んでいます。
 

 
沖縄は日本国憲法の適用外となり、国会議員を送ることもできず
本土復帰までの27年間もの間、日本政府からの
適切な支援を受けることができませんでした。
その結果として沖縄は本土と比べて、道路・港湾・学校・病院・住宅など
社会資本の あらゆるものが不足していったのです。
 
 

1972年の本土復帰以降も沖縄は、騒音問題や環境問題など
とりわけ米軍基地にかかわる深刻な問題を抱えています。
米軍基地に起因する事件や事故も、これまで幾度も繰り返されてきました。
1959年の宮森小学校での嘉手納基地米軍ジェット戦闘機墜落事故では
小学生11人を含む17人が死亡しました。
1995年には米兵3人による12歳少女への拉致強姦事件が発生しました。
しかしながら『日米地位協定』の関係で捜査がいつも遅く、処分も甘く
次なる犯罪の温床にさえ成り下がっています。
もとより国土面積の約0.6%しかない沖縄県に
日本国内にある米軍専用施設総面積の約70%が
沖縄に集中しているところに基地問題の厳しい現実があるのです。
 

 
ところで皆様は、“普天間飛行場” の存在をご存知でしょうか?
宜野湾市の中心部にあって住宅密集地から至近距離の場所に隣接し
『世界一危険な飛行場』として知られています。
この表現自体、2003年当時のラムズフェルド米国国防長官が
普天間を視察した際に述べた言葉です。
危険なうえに騒音がひどく、アメリカ国内なら
危険な場所に軍事基地をつくることは絶対に許されません。
日本ではどうして可能だったのでしょうか? 
基地建設の前から、周辺に住宅密集地域があったにもかかわらず…。
 

 
いつしか“辺野古”への移設案が持ち上がり、すでに工事が
着手されてしまったものの 辺野古のほうもまた、世界的に貴重な
海への環境破壊や、反対意見などの大きな諸問題を抱えています。
沖縄県には31の米軍専用施設があり、沖縄本島においては
総面積に対し当該施設だけで約15%もの面積を占めています。
さらに陸上だけではなく、沖縄県周辺には
水域27箇所と空域20箇所が訓練区域として米軍管理下に置かれ
漁業への制限や航空経路への制限などが温存されています。
 


 
そもそも米軍基地の土地は、日本軍が島民から農地などを強制収用した
軍用地が米軍に引き継がれ恒久基地化されたものがほとんど。
戦後に至っても沖縄県側がみずから基地を提供したことは一度もなく
戦後の米軍占領下で住民が収容所に隔離されている間に無断で
集落や畑がつぶされ、なおかつ日本の独立後も武装兵らによる
“銃剣とブルドーザー” で居住地などが強制収用されました。
住民の意思に反して基地が次々と建設され
さらなる拡充・強化が行なわれてきたのです。
 

 
すでに沖縄は、米国のアジア戦略の
“要め石”(かなめいし)とされているのが実際のところ。
朝鮮戦争やベトナム戦争の際も
沖縄の基地が大きく関与していた事実を否定できません。
その当時、ひっきりなしに B29爆撃機などが爆音を立てて
戦地まで飛び立っていたであろう姿を、想像するのも嫌です。
この世界に戦争さえなければ
軍事基地などいっさい必要でなかったものを…。
 

平和祈念公園

 
本日、6月23日は沖縄慰霊の日。
太平洋戦争末期の沖縄戦などの犠牲者を悼む日です。
沖縄県では1961年より、この日を法的に休日と定めました。
79年前の今日、沖縄の防衛に当たっていた第32軍司令官の
牛島満中将と長男参謀長が自決し
沖縄戦での日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日です。
 

 
慰霊の日に、糸満市摩文仁の平和祈念公園において
『沖縄全戦没者追悼式』が開催されます。
歴代首相も参列し、追悼式の様子は毎年テレビ中継されますが
正午に合わせ参列者の全員が、あるいは各家庭で1分間の黙とうを捧げ
沖縄県知事が『平和宣言』にて
戦争の悲劇を二度と起こさせない決意を表明。
そして地元の子供たちが寄せた詩の今年度選ばれた作品が
『平和の詩』として朗読されるのです。
 

 
平和祈念公園にあるのは犠牲者の名前が刻まれた『平和の礎(いしじ)』。
慰霊の日に先立つ今月19日には、この1年で新たに申告のあった
戦没者181人の名前の刻まれた刻銘板3枚が新たに追加されました。
これにより戦没者刻銘は24万2225人となります。
礎の近くにある平和祈念資料館前では、新たな追加刻銘者の
読み上げが行われており、加えて今年で3回目の取り組みとして
刻銘者全員の読み上げが行なわれるようになりました。
全員の読み上げに必要な時間は、のべ240時間。
取り組みは今月1日から始まっており
那覇などの各地で行われる読み上げに今年は約5500人が参加。
オンライン上でリレーされ全世界へ発信されています。
 

 
沖縄慰霊の日に際し、今年もまた平和の尊さを語り継いで行くための
『平和行進』が行なわれました。
遺族や地元の方々を中心に、ひめゆりの塔前から平和祈念公園まで
1時間かけての、およそ4キロの道のりです
それでも、昨年あたりから高齢者に配慮して短縮されたとか…。
当日は沖縄県平和記念資料館と沖縄平和祈念堂が無料公開となり
午後5時30分からは、平和の礎にて
県内アーティストによるチャリティーライブ。
午後8時からは、沖縄戦終焉の地である摩文仁の上空に
純白無垢の『平和の光の柱』として
サーチライトを照射して、沖縄の平和への思いが発信されます。
 

 

ちょうどこの頃の沖縄地方は、梅雨明けの時期を迎え
早朝から青空のもとで多数の沖縄県民が、平和祈念公園のみならず
各地の慰霊塔や慰霊碑などに集まり、犠牲者の冥福を祈ることとなります。
そして、心をひとつに誓います。
もう二度と、戦争を起こさせてはならない…と。
けれども肉親の遺骨がいまだに戻らない大勢の遺族の方々にとって
戦争はまだ終わっていません。
米軍基地の存在や、地中に埋まったままの
沖縄戦当時の不発弾も沖縄の人々の生活をおびやかしています。
 

 
同じ日本人である沖縄県民の心に
どうか皆様も寄り添ってくださることを願います。
令和6年6月23日、建礼門 葵
 

 
 
【太平洋戦争末期の沖縄戦による戦没者総数】
日本軍将兵   約   73000人
米軍側兵士   約   12500人
県内民間人   約 147000人~約150000人
        (当時の島民の4人に1人、またはそれ以上)
 


ひめゆりの塔



 
≪戦争反対≫に関するメッセージおよび格言
 
🔷この世で最も醜いもの、それは戦争。
この世で最も憎むべきもの、それも戦争。
数知れない人々を殺し、数知れない人々を泣かせ
数知れない人々を不幸のどん底にたたき込む、許しがたい怪物。
この世に戦争さえ無ければ
誰も笑顔で、人間らしく暮らせただろうに。

 
🔶民族と民族、宗教と宗教、国家と国家の怨恨と対立が
深刻すぎる惨禍を招いた。 混沌とした世界秩序の、成れの果てとも言える。 慈悲の心あらば、気付いてほしい。 命の尊さと比べ
いかに戦争が、時代錯誤の罪深い愚行であることかを。


🔷核への依存を各国が断ち切れず、ひとたび核戦争が勃発したなら
引き返すことの出来ない、巨大地獄が待ち受けている。
人類の滅亡はおろか、地球環境の徹底的破壊すら
現実のものとなるだろう。 世界を震撼させた、広島と長崎の
被爆の実相を知ったとき、私達は、声も出せないほど驚いた。
渾身の怒りと涙を、こらえきれなかった。


🔶いかなる哲学も、政治も、宗教も、科学技術も、芸術も
戦争に加担してはならない。
卑劣で残虐非道な悪魔に、魂を売り渡してはならない。
無辜(むこ)の人々を無差別に惨殺してまでも
守らなければならない価値観など、どうして必要だろうか?
同じ祖先の血を受け継ぐ、同じ人間ではないのか?
今こそ、人の道に立ち返ろう。


🔷恒久平和への崇高な悲願達成に、不可欠の条件とは何か?
それは “人類愛” である。 人の道として、核兵器も戦争もテロも
すべて廃絶させなければならない。
高度に成熟した文明社会に生きる、21世紀の人類こそが——。


🔶この世界から戦禍が絶えない限り、私達は日々の生活を
満面の笑顔で送れない。 身に余る贅沢も、全く気が進まない。
なぜなら人には、生まれ備わった感情がある。
人類の一員であることを胸に、私達は最後まで一生懸命に
信じていようとも。 世界の人々の、平和を希求する高潔な精神を。
人類の何にも負けない、不屈の正義と、無償の愛の強さを。


🔷世界じゅうの純粋な魂がひとつになった時、未曽有の奇跡が
もたらされるに違いない。 悲しみの涙が
いつしか幸せの熱い涙に取って代わる。 何物にも代えがたい尊厳ある命が
ひとつ残らず報われるように…。
そうでなければ世の中は、あまりにも不公平に思えるから。


🔶宇宙・万物を創造された私達の神様。  もしも本当に
神様が存在なさるのなら、あまねく世界の武器という武器を
どうか、人類から取り上げてください。 すべての戦争と
戦争を引き起こした悪魔を、一刻も早く葬り去ってください。
私達はどうしても叶えたい。  あきらめてはならない世界平和を。
数知れない人々と共に。 人々の祈りと愛が、決して無力では
なかったと、宣言できる その瞬間まで立ち会いたい。


🔷21世紀の、新時代の人類は必ずや、成し遂げることが出来る。
痛ましい現実に何度も泣かされ、心が押しつぶされそうなときも
私達はどんなにか、待ち焦がれたことだろう。
どんなにか、願い続けたことだろう。

戦争のない世界…。  戦争による憎しみや悲しみのない世界…。
全人類が分けへだてなく、笑顔で暮らせる世界を。


——以上、建礼門葵 作『戦争のない世界へ向けての宣言』
からの引用でした。
 


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