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君と僕。

「こわいの。」

「わたしが傷つくことより、誰かを傷つけることの方がこわい。」

彼女はぽつりぽつりと話し始めた。

「ほら、わたしいじめられていたでしょう?だからなのかな。誰かを傷つけることで、あのつらさを、誰かに感じさせてしまうのがこわいの。 」

「その人の心を殺してしまうのがこわい。 」

彼女はとても優しい人だった。
彼女が怒ったところを見たことがある人間はこの世界に何人いるだろう。彼女が笑って許さなかった場面はあっただろうか。

「でも、だから、きっと舐められるのよね。『あいつは怒らないから』『あいつはなんでも許してくれるから』軽んじられるのよねきっと。 」

彼女の瞼は重くなる。瞳が宙を舞った。

「怒らない人間が、なんでも許してくれる人間が、何も感じていないとでも思ってるのかしら? 」

一転、こちらをまっすぐと見つめてくる。

「怒らなくても、笑って許していても、わたしの心はとても傷ついているのに。傷つけている自覚すらないのでしょうね。 」

彼女の視線は落ち、その笑顔からは悲しみすら感じられる。本当に彼女は細かい表情が豊かである。どうして誰も気づかないのであろうか。直接的に現れずとも、ここまで素直な感情が読み取れるというのに。

「でもね、最後に会って5日後にそうなっていたのなら、もうわたしには為す術がないのよ。そう思うでしょう? 」

誰に訊ねているのかもわからないその問いに、僕はこたえることができなかった。僕は黙って聞くことしかできない。

「わたしはね、泣ける女が嫌いなの。そうよ、わたしが泣けないから。堂々と恋人の前で泣いて、守ってあげなきゃと思わせることが上手な女。それを自分からSNSに書いちゃう女。泣くことも、迷惑をかけていることも全世界に発信しておいて、どうしてあんなに堂々としていられるのかしら。 」

彼女の語気が僅かに強くなる。彼女は怒らない人間などではない。怒りを、自分の中でくるんでしまうのが上手なだけなのだ。相手に伝わらないように、笑顔で耐えるだけなのだ。彼女はちゃんと人間だった。

「人から奪うことも、人を繋ぎとめておくことも、人に罪悪感を感じさせることも、なんだってできる。泣ける女はわかってて使っているの。武器なんてかわいいものじゃないわ。 」

「女の涙は呪いなのよ。 」

カラン、と、グラスの中で溶けた氷が音を立てる。その瞬間一気に現実世界に引き戻された。楽しそうに会話をする男女。1つのパフェを分け合う高校生。賑わう夕方の喫茶店で、僕たちのほかにいた登場人物が、突然、姿を現し始めた。

「守ってあげなきゃ、そう思わせることができる女は、誰にでもそう思わせることができているのにね。別にあなたが守ってあげなくても、誰でも守ってくれるのに。 」

彼女の声は、この空間の“幸せ”にかき消されてしまいそうだった。みんなが笑っているこの空間で、彼女だけがひとり、傷だらけだった。彼女はいつだってボロボロで、それでいて、泣いているところは僕でさえ、一度だってみたことがなかった。

「じゃあ、わたしはどこで泣けばいいの。誰に守って貰えばいいの。付き合っている人にさえ大切にして貰えないのに、誰が大切にしてくれるというの。 」

僕でいいじゃないか。その言葉を必死に飲み込む。彼女は、恋人に二股をされていたのだった。健気に信じ、待ち続けた彼女を、あっさりと裏切ったその男が、僕は殺したいくらい憎かった。

「わたしも、泣けばよかったのかしら。 」

ため息を吐くように呟き、微笑みながら彼女は窓の外へ視線を移した。太陽はどんどんと沈み、地平線と交わっていく。いつまでも交わることのない君と僕。今にも壊れてしまいそうなその横顔を、僕はいつまでも、いつまでも見つめることしかできなかった。


秋。


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