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視界の限り-約束の旅路-

気分のとどまりを、淀みのように思うのは、近頃のよくない傾向だ。
よくない傾向だが、それに対処しないわけには日々暮らせないので、今日は外にパソコンを持ち出した。

自宅のブロードバンドが使えない。
数日前の晩、突然ネットにつながらなくなった。
ソフトバンクからレンタルしているルータの、8つくらいあるランプのうち2つが消えていたので、訳もわからず電源を抜いて挿してみて、30分放っておいたら、なぜか復旧した。
と思ったら、翌日にはまた使えなくなり、こんどは8つのランプが全部消えてしまった。

しかたがないのでテクニカルセンターに電話したら、ルータを交換する必要があるだとかで、それが届くのに数日かかる。
AirHがあるので致命的に困るわけではないのだが、IP電話も使えないので、「ホットライン」化している神戸の友人への電話代がかさむのが微妙にむかつく。
ソフトバンクは不通期間の利用料を割り引いてくれたりしないんだろうか。



でも、まあ、そんなことはいい。
他の用事もあったので、今日は有楽町まで出てきた。
昼にぶら下がって大いに賑わう、オーバカナルのオープンテラス。
向かいの小学校、緑の蔦の眺めが心地いい。

隣のテーブルで女性を明らかに口説いている様子の男の横顔、なんだか見栄晴みたい。
しゃべり方と声のトーンが耳障りだから、ちょっと静かにしてください。
相手の女性も、ちょっと引いてますよ。

この国は平和。そして、豊かだ。
そう心から感じる、ひとときの景観。

二ヶ月ほど前、ある友人と会い、そのとき何か思ったか思わなかったか、その友人が数日後、ささやかなメッセージカード付で映画のチケットを送ってきた。
「同じのをたくさんもらったから」という作品の名は、「約束の旅路」。
チケットに描かれた主人公は、聡明そうな瞳の黒人の少年だった。

5月下旬までの期限がついていたので、先日、神保町までその映画を観にでかけた。

岩波ホールという映画館。
映画館というよりは、市民ホールという雰囲気。
説教臭い匂いがするのは、神保町という土地柄と、「岩波」という出版社の名のせいだろう。
タイトルを聞いたこともなかった映画なのに、意外にも、ほとんどの席が埋め尽くされていた。
心なし年齢層が高いのも、なんとなく「岩波ホール」に似つかわしい気がする。

やがてブザーが鳴り、照明が落ち、スクリーンにはアフリカの大地が映し出される。
日常が映画へと導かれる瞬間に、音もなく世界のルータが切り替わる。

そもそも黒人のユダヤ人というものが存在することを、私は知らなかった。
というより、ユダヤ人が何なのかといったことを深く考えたことがなかったという方が正しい。

私のイメージにあるユダヤ人というのは、「アンネの日記」のアンネ・フランクであり、ウディ・アレンであり、アインシュタインやフロイトであって、東欧系やロシア系の白人だったが、そこに何かの根拠や信条があるわけでもない。
そもそも多くの日本人にとって、ユダヤとは「ナチスによる虐殺」と紐ついた解釈以外に疎いのが一般的で、私の認識においても、多少の世界史の知識が加わったとしても、大してそれと違わないのが実際だ。

ユダヤ人はユダヤ教徒とイコールでもなく、かといって血縁だけで語られるものでもないらしい。
ユダヤ人社会の中でさえ、右派の間では正統と異端が区別され、エチオピア系ユダヤ人というのは「正統」な人々からすれば紛れもなく「異端」に当たる存在で、「異端」な彼らは差別を受ける対象となる。

主人公のエチオピア人少年は、本当はユダヤ人でさえない。
自らをユダヤ人と偽ってイスラエルへと亡命するのだが、それは彼を生き延びさせるため、母が無理やりに別の人生を与えたからだった。
実の母を残してゆくことに耐えられず涙を滲ませる幼い彼に、母は「決して振り返るな」と言う。
振り返ることを禁じられた彼は、豊かさと引き換えに、自己否定の苦悶を抱え生きてゆく。

ユダヤ、ユダヤの黒人、ユダヤでさえない黒人。
弱者がさらに弱者を叩く連鎖は幾層にも重なる。
それは、確かに現実のものだ。

この平和な日曜の下では、俄かに想像がつかない。
けれど、それは同じ時間軸で起きていて、また、かたちを変えたものとして、私たちの日常にも潜んでいる。
映画は史実に基づいていて、それからすれば、主人公の少年は、ほとんど私と同い年なのだ。

人生の切実さは、誰もに等しいのだろうか。
人より太っていることを理由として受けるいじめと、人種を理由として受けるいじめは、同じものだろうか違うものだろうか。
信じた人に裏切られる苦しみと、信じてくれる人を裏切る苦しみは、同じものだろうか違うものだろうか。
戦乱の日々と、飢餓の日々、隔離病棟の日々、誰とも口をききたくない電気の消えた部屋の日々、何が何よりましなのか、現実は想像力の蚊帳の外。

私は何も知らない。
全てのことなど、知りようもない。

現実に対して、何かできるのかできないのかも分からない。
こういう話を見聞きすると、途方もなく遠く、抗し難い力に途方に暮れてしまう。
ただ、断片だけでもそれを知ると、自分の中に小さな変化が起きるのを感じる。

世界は簡単には変わらない。
けれど、私はほんの少し変わる。
そういう変化が他の誰かの中にも起きるなら、世界が人によって形づくられている以上、いつかは変わっていくのかもしれない。
というよりは、変化とは一時期に起きるものではなく、ただ途切れなく続いていくのであって、その変化のうねりの舵取りを小さく大きくとっていく力は、今この世に生きるすべての人にあるのかもしれない。

すくいきれない海の水をすくい、砂漠の枯れ木に水をやる。
一見そう思えるものに、意味があるのかないのかと、それを決めるのも人の心だ。

私の視界に限れば、この休日は平和だ。
けれど、人の心までは覗けない。
その笑顔の裏も、今言いよどんだ言葉の続きも、それが引き起こす未来の姿も、やはり私は何も知らない。

約束の旅路 Va, vis et deviens(2005年・仏)
監督:ラデュ・ミヘイレアニュ
出演:ヤエル・アベカシス、ロシュディ・ゼム、モシェ・アガザイ、モシェ・アベベ他

■2007/6/3投稿の記事
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