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東京はなくならない-三四郎-

「三四郎が東京で驚いたものはたくさんある・・・もっとも驚いたのは、どこまで行っても東京がなくならないということであった」

漱石は、私の中で不動の、最も好きな作家だ。
疑問を挟む余地がないほど完璧な心理洞察を、みごとな写実力で表現する。
心地いい言葉のリズムを追っていけば、情景がありありと浮かび、まるで自分がその場に居合わせているかのような臨場感がある。

かたちや色だけでなく、音、匂い、空気の流れさえ、文章で「本当に」再現できるのだ。
登場人物と同じ世界の同じ座標軸に自分を置いたとき、そこで見るもの、聴くものが、一定の感情を呼び起こす。
まさに、シンクロナイズ。
登場人物と、同じ感情を別の胸に再現する。
テレパシーのようだけれど、そんな超能力こそが一流のアーティスト、エンターテナーの仕事だと思う。

今回の趣旨は、漱石を称えることではない。

昼間、神保町を歩いていて感じたこと。
この街の雑多感は、歩道を行くだけで楽しい。
裏路地に迷い込めば、もっと楽しい。
セピアの背表紙が並ぶ古本屋、店幅一間のちょっと呑み屋、歩道を遮るはみ出した看板、軒先の自転車。
まるで、明治あたりのコアな東京が時代を平行移動してきたかのような趣がある。
生活と街角の時間的連続性。
今、その路地に消えた背広のおじさんは、150年前にも同じようにそこを曲がったような錯覚さえする。

普段働いている溜池の道は、すれ違う人の3分の1は外国人だ。
ランチで隣の席に座った女性グループは、日本人のように見えても、会話は英語。
時折日本語が混じって、どうやら帰国子女らしい。
深夜2時を過ぎても、オフィスの灯りは消えない。
明け方のビルの前には、タクシーが列を作る。

赤坂まで足を延ばせば、ひっそりとした裏道、平屋建ての料亭。
ゆかしい門の前に威厳を放つ黒塗りがとまる。
品の良い女将が深々と頭を下げると、割腹の良い、国会中継か何かで見たような顔がその門をくぐる。
すぐ脇には、一室一室の住人の顔をうかがい知れない、日陰のマンションの佇まい。
ちょっとした犯罪の臭いさえする。
そうかと思えば、TBSの周辺の賑やかで雑然とした通り。
このあたりには、韓国料理の店が多い。

大手町はまるで、ミニチュアの街に放り出されたように心細い。
高層ビルの照り返しに、夢と現実の境が見えなくなる。
道行く人の種類は皆似ていて、ダークスーツにブリーフケース、踵の鳴る靴、携帯電話。
一つ一つの建物が大きいので、次の角まで歩くのに、楽しみが何にもなくてため息が出る。
それでも、それは一時の戦闘モード。
朝方はこわばった表情も、帰り道には疲れや安堵にゆるみ、地下鉄の階段に列をなして消えていく。

新宿に行けば、「ああこれが東京だ」と思う。
駅のホームで聞くのは、地方訛り。
意味もなく大きな荷物を抱えた若者がいる。
その鞄、何が入っているのか。
大きく膨らむ大都会への夢か、それとも、向こう見ずに飛び出した挙句に途方に暮れた、せちがらい現実か。
歌舞伎町のネオン、アルタ前から三井住友銀行前にかけての、待ち合わせの顔、顔、顔。
黒服に金髪の男性、膝上20cmスカートの女性、弓なりの眉をした女性のような男性。
この街では、東京が誰のものだったかを知る。

秋葉原。電気街。
これほど揶揄されていても、決して曲げないのが不思議なほどだが、揃い揃って秋葉原ファッション。
ネルシャツ、ケミカルウォッシュジーンズ、リュックサック、バンダナ。
指なし手袋と紙袋も忘れてはいけない。
しかし、彼らはこの街で水を得た魚。
雑居ビルの一室で看板も出さず、違法スレスレの品を売る店を、どれだけ知っているかが彼らの価値を測る。
私は、こういう環境に不似合いな格好で放り込まれてしまうのも、あながち嫌いでない。
こんな街は世界中探しても他にない。
ここは、世界一のハイエンドテクノロジーの聖地。
電化製品を値踏みしながら、店員の話を聞きながら、様々な電子音と呼び込みとにクラクラもまれつつ、真剣勝負で見てまわるのは案外楽しいものだ。
だからこそ、この街で見かけるもう一つの人種は、いまや外国人観光客となっている。

銀座、麻布、白金、恵比寿。
東京、品川、六本木、池袋。
渋谷、原宿、青山、外苑前。
神田、浅草、本郷、御茶ノ水。

東京はありとあらゆる顔を持つ。
小さな単位で、大きな街が連なって存在する。

田舎生まれの人間からすると、新橋、日比谷、有楽町、銀座と、徒歩で各々10分圏内なのに一々違う名前がつけられて、一々違う街として存在しうること自体が驚きだった。
そして実際、それぞれが一々に、別の個性を持っている。
そこで暮らす人、働く人、遊ぶ人の姿が、各々の街で違う。

大阪はせいぜい歩いてキタからミナミまで。
御堂筋をまっすぐ。
知っているだろうか、東京の山手線の一周は、大阪の環状線の2倍の時間がかかるのだ。
東京は、広い。
どこまでもどこまでも続く、大きすぎる街。

ゆりかもめからお台場のマンション群の隙間を見下ろしてみれば、ここにも私の知らない街角を発見する。
その軒先にドラマがある。
全部探検して、お手製の地図を作りたいくらいだ。

テレビもラジオも、ましてインターネットなんてなかった漱石の時代。
小説は、庶民にとって、ガイドブックの役割を果たしていた。
目新しいスポットができれば、いち早く小説に登場させて、トレンド紹介になったり、ちょっとした宣伝になったりもした。
「三四郎」の中でも、上野の精養軒や現在の本郷三丁目交差点の一角にある小間物屋「かねやす」、そして東大構内の三四郎池(もちろん小説にちなんで後から名づけられた)といった場所が紹介されている。
そういった意味も兼ねて、三四郎が出逢った数々の東京と、そこに生きる一足進化したかのような人間たちと、田舎とは比べ物にならない時代のスピードに対する驚きを、我がことのごとく思い出させてくれるのが、この漱石の小気味良い一冊。

三四郎が東京に出てきて何より驚いたこと。
「東京はなくならない」、どこまで行っても。

私は度々、その事実に嬉しくなってしまう。

三四郎
著者:夏目漱石
出版社:新潮社

■2004/11/2投稿の記事
昔のブログの記事を少しずつお引越ししていきます。

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