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一つの部屋-神様のボート-

ふくらはぎが痛い。
普段ほとんど歩かない生活なので、ちょっと長い距離を歩くとすぐ筋肉痛。
日頃の運動不足を、激しく反省。

ヒールを脱いで、フラットなサンダルを履く休日。
繰り返し打ち寄せて引いていく、波の音。

果てしなくマイペースな父と母との旅は、こちらもマイペースを決め込むに限る。
下手に合わせようとせずに、一々干渉しない、好き勝手な旅の楽しみ方をする。

うちの親子は全員B型。
ちなみに、弟二人も。

子供の頃、私が一番好きだった時間は、土曜日の夜。
夕食の後、両親と私と弟たちと、みんなが一つの部屋でくつろぐ夕べ。
父は将来の自宅の図面を引き(私の父は建築士免許を持っていて実家は父が設計した)、母は読書をしている。
テレビでは「世界不思議発見!」がやっていて、私たちはそれを観ている。
末の弟はもう半ば、うとうととしている。

私は、自分の視点から部屋の全体像を見渡して、とても満足な気持ちだった。
同じ部屋で、めいめいが勝手なことをやれる余裕。
家族とは、こういう安心感の中にあれる大切な集合体で、きっとこれは幸せの一形態なんだと、心からそう感じることができた。
「お母さん、こういうんが幸せって言うんかな?」と私が言ったら、母はおかしな子ね、というように首をかしげた。

いつもは、同じ部屋にいれば、客人に気を遣って世話を焼いてしまったり、どこか緊張したり、あるいは時間を惜しむように相手と密に関わっていたいと思ったりする。
一つの部屋にいるのに、相手がいようがいまいが構いなく行動できるのは、ごくごく限られた人たちだけで、それがつまり、ほとんど家族の定義に等しい気がする。
少なくとも、私にとっては。

たぶん、恋人と夫婦の違いも、そんなところにあるんじゃないか。

今回の旅行でも、両親と私はまるで好き勝手な動きをしていて、一緒に旅しているんだかいないんだかよく分からないほど。
ただし、食事の楽しみだけは大いに共有する。
この点においては、私たちの関心事は一致するので。

私は旅の合間合間に、読みかけの小説の続きを追った。
江國香織の「神様のボート」。

主人公はシングルマザー、葉子と、その娘、草子。
ふたりはもう10年以上、旅がらすの生活を続けている。
高萩や、佐倉や、逗子といった関東近郊の町を移り住む暮らし。

同じ場所にとどまるのは、3年と続かない。
それは、葉子が草子のパパである、ただひとり愛する男性を待ち続け、あらゆる場所に「馴染んではいけない」という強迫観念を背負って生きているから。

なぜ人を待ち続けるために引越しを繰り返さなければならないのか、ロジカルな理由は見当たらない。
普通に考えれば一箇所に留まっている方が、相手が自分を「見つけ出す」には都合がいいように思うのだけれど、そこが奇妙なことに、葉子は狂気に浸されているのだ。
彼女曰く、親子は「神様のボート」に乗ってしまった。

この小説の興味深いところは、物語において7年に及ぶ時の流れの中で、当初はほとんど一心同体のようだった母娘が、やがて娘の自我の成長とともに、別々の考えを持ち、それぞれの生き方をし、そのことにお互いに驚きを隠せないこと。

やがて幾つかの衝突が生まれるけれど、それでも、優しく、ただひたすらに相手に対して優しくありたいと思う気持ちが、切なく愛おしい。

「神様のボート」において、ふたりの人生は一つの部屋の中でめいめいに紡がれていく。
部屋の中の一要素として、お互いを認知しつつ、流れるのはそれぞれのとき。
ピアノを弾く母。絵を描く娘。
最愛の人を想う母。その母を憐れむ娘。

一つの部屋で相手への意識から解放され、家族という安心感は懐かしくて、そして、ずっとずっと追い求めるもの。

神様のボート
著者:江國香織
出版:新潮文庫

■2005/5/8投稿の記事
昔のブログの記事を少しずつお引越ししていきます。

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