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銀座の夜と彼岸花-岸辺のふたり-

高校野球を最高潮にして、この暑い夏もようやく落ち着きを取り戻した。
少しばかり過ごしやすくなった朝晩に、微かな切なさが忍び込む。

訪れるのは二度目だというのに、またも行過ぎて引き戻る銀座の混沌。
目的地は、隠れ忍ぶような場所にある。

Salone Ondataは、近頃のお洒落な男性たちが憧れを募らせるクロージング・サロンなのだそうで、男性ファッション誌でも度々取り上げられているらしい。
私が普通にしていれば、その名を知ることも足を運ぶこともなかっただろうが、ちょっとしたきっかけで、このサロンで不定期に開かれている短編映画上映会に声をかけられた。

看板も見当たらないままの雑居ビルを、小さなエレベーターで8階まで上がり、さらにフロアの奥の扉を押す。
その先に広がる、こじんまりとしてかつ洗練された空間は、正真正銘、大人の世界だ。
正直言って、私などでは気後れしてしまいそうだが、それでもしばし背伸びを楽しんでみる。



店内の一角はバーカウンターになっていて、スーツをオーダーしなくても、ソファやスツールに腰かけお酒を楽しむだけでもいい。
「サロン」という呼び名が実にふさわしい、ゆったりとした気分にさせる居心地のよい空間。
既に数人の品の良い大人の方々が、好みのグラスを手に語らっている。

前回は、まだコートを羽織る季節に恐る恐る一人で訪れたが、今回は、映画とスーツが大好きという男友達を誘ってみた。
Salone Ondataの名前を出すと、案の定、強い興味を示したので「へえ」と思う。

エントランスで荷物を預け、駆けつけにシャンパンを一杯。
遠慮のせいかまだ空席のスクリーン正面のソファに、密かにはしゃいだ心で腰を下ろす。
やがて、銀座の片隅、小さな部屋の灯りが消えて、白い壁にプロジェクターの光が照射されるのとともに贅沢なひとときが始まる。

映画は全部で6本で、全てが上映時間15分以内の短編作品だ。
日本人の作品だけを集めていた前回に対して、今回は全て外国作品。
ヴーヴ・クリコ色のハンドアウトには、アメリカ、オランダ、フランス、ブルガリアという国名が並ぶ。

その中に、気になるタイトルがあった。

   「岸辺のふたり」 2000年オランダ 8min

私が初めて短編映画というものに触れたのは、2002年の春先、立川で開かれた学生向けのショートフィルムコンペティションだった。
知り合って間もない人に映画が好きだと言ったら、こんなのがあるから観に行こうよと誘われて、真夜中から明け方にかけての映画上映会に赴いた。

そのときに観た映画は、正直を言えばひどく退屈だった。
延々と続く学生の習作に思わず眠りに落ちそうになり、「もう出ようか」と言いたい気持ちが度々よぎった。

けれども、その中で(それは学生の作品ではなく招待作品だった)、短編映画の代表的良作として紹介された一遍のアニメーション作品が、思いがけず私を惹きつけ、心に刻印めいたものを残したのだ。
それがいまだに私の短編映画の原点のようになっていて、後に様々なショートフィルムを鑑賞するたび、あのときの遥かな感動をどこか手探りしてしまう。

けれど、タイトルを忘れていた。
だから、その夜、ハンドアウトの上から3つ目に、「岸辺のふたり」、その名を見つけたとき、もしかしてこれはと思ったのだ。

記憶の映写機がカタカタと回り、私をあの懐かしい風景に連れてゆく。
回帰する、ビタネス。

父親と幼い娘が自転車に乗って堤防を走る。
二人は自転車を止め、岸辺へと下りる。
父はひとりきり川面に浮かぶボートに乗って漕ぎ出し、娘は岸辺でそれを見送る。

それから娘は毎日そこへやってくる。
旅立った父の帰りを待って、自転車を漕ぎ、堤防を下り、岸辺から沖へ呼びかける。
けれども、父は帰らない。

やがて娘は成長し、年頃になり、友だちとはしゃぎ、仕事をもち、恋をして、結婚して家族を持つ。
四季が何度も巡る中、それでも娘はその場所を通るたび、友人たちの輪から外れ、教え子たちの列を止め、恋人と手をつなぎ、夫や子と連れ立って、岸辺に佇み、ただ河の向こうの帰らぬ父を想う。
年老いても、来る日も、来る日も。

そんな彼女に訪れる奇跡。

一言の台詞もない、アコーディオンとピアノだけの背景。
セピアの色彩だけで織り成す、8分間の永遠。

上映中は、ここがどこか忘れるほど夢中になって、数多の想いが胸の奥にしみこんでゆくのをじわりおぼえた。
彼岸の人を、ただひとすじに想う気持ちは、なぜだろう、国を越えても、時を越えても、等しいのだと感じる。
人が人を愛することには必然性があるようでないのに、たったひとりの父や、たったひとりの母を、いつか亡くす日のことを思えば、苦しいほどに胸が締めつけられる事実はどういうわけなのかと説明がつかない。

感謝だとか、憐憫だとかの類ではない。
それは、レトリックを超えた次元で人の内源から湧き起こり、自らの一部を失うような喪失感でもあり、自らの一生の末路を見通すような恐怖でもある。
家族と私は、別個体でありながら、ある側面で分かちがたい一続きの存在であり、また連続する命の感覚が私たちを家族にしているのだとも言える。

ちょうど一週間前、実家の犬が死んだ。
私が高3だった夏にやってきた犬で、名前はエスと言う。
私はそれから半年ほどで家を出てしまったので、彼と一緒に暮らした想い出は少ないけれど。

初めてうちに来たときの、子犬のくせにたくましく、白い靴下を履いたような足。
半ば転げながらつんのめって走る、元気な毛並み。
ひとりで突進して行ったかと思うと不安げに振り返って全速力で戻ってくる、愛くるしい赤い舌。
家族の顔を見たときの、嬉しくてたまらないという高速振動の尻尾。

一番かわいがっていた祖母が、受話器をとるなり「エスが死んでん」と言い、それを聞いた私の鼓動が深いところで鳴った。
夏があんまり暑すぎて、14歳の老犬にはきつかったのだろう。

何度も何度も、エスは幸せだったか、エスは幸せだったかと自問する。
私たちの犬でいて、エスは幸せだったか。エスは幸せだったか。
最期は苦しくなかったか。辛くなかったか。暑くなかったか。痛くなかったか。

「エスがえらい弱っとってな。アイスクリーム食べるか言うたら、顔あげたから、口の周りにアイスクリームつけたってん。
そしたら、もう、それから直や。今度見たら、もう動かへん」

エスは家族だったんだなあと思う。
私たちはエスが大好きで、エスは私たちが大好きだったんだなあと思う。
なぜならエスとの命の連続性を、今、こんなふうに感じているからだ。

さざ波の遥か先、あるかないかも確かめようがない彼岸の世界。
エスはそこに行ったのだなあと思う。

いずれにしろ、短い一生だ。
そこで、互いにわずかに糊しろが重なるにすぎない一生だ。

実家の近所にある寺の境内には、泣きじゃくるほどに紅い彼岸花が咲く。
ねずみ色の石垣に映えて、細い茎の頭に艶かしく花をもたげる曼珠沙華。

葉のあるときは花咲かず、花の咲くとき葉は枯れる。
葉は花を想い、花は葉を想う。
決して叶わなくても、ひとつになれなくても、ただひとすじの想い、彼岸花。

その河は、ふたりを隔てているのではなく、つないでいる。

上映会の終盤に、激しい雨がガラス窓をうるさく叩いた。


岸辺のふたり Father and Daughter(2000年・蘭)
監督:マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィッド

■2007/8/28投稿の記事
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