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天国と呼ばれる国  レソト 【旅のエッセイ】

レソトの肩を越えて


 南アフリカ共和国のなかに、九州ほどのちいさな王国がある。ドラケンスバーグ山脈を南東に抱えるレソトという国は、四方を南アフリカに囲まれている。
南アフリカの海岸の都市ダーバンに滞在していた時に、旅する若いフランス人カップルに出会った。特に行く当てもなかったわたしを、レソトへの旅に誘ってくれた。カップルの旅行についていくなんて悪いな、と思っているわたしに、ふたりより三人のほうがいいじゃない、にぎやかで…とカップルのひとり、シャーロットがブロンドの長い髪をなびかせて言った。
「天国と呼ばれている国らしいの。見てみたいじゃない」
どうやらレソトは「アフリカのスイス」とも呼ばれ、標高が高く冷涼な気候で、山や丘が美しいのに加え、雪が降ることもありスノースポーツが楽しめるということで、近隣アフリカから寒さを楽しみに来る旅人も多いそうだ。
 まもなく二人がレンタルしている青いシトロエンの後部座席に乗せてもらい、レソトへ出発した。爽やかで陽気なダーバンから、北北西へ。シャーロットと恋人ののっぽのクレマンが交代で車を運転する。その繰り返しごとに、だんだんと霧が立ち込め、左右の視界は岩山になった。南アフリカからドラケンスバーグ山脈の気配がし、地理的環境が刻一刻と姿を変えていくのがわかった。 

 三千メートル級の山脈が一千キロ続くドラケンスバーグ山脈。南アフリカの平野側からみると、山脈が重々しい肩となり、向こう側に行くのを阻んでいるかのようである。垂直に切り立った崖、頂は叩いて伸ばしたかのように平らである。ロストワールドを彷彿とさせるようなかたち。
そのドラケンスバーグ山脈の高ぶりを湛えた造山帯がレソト側に広がっている。
 レソトは国土の多くをドラケンスバーグ山脈造山帯が占めている。

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Diriye Amey from Locarno, Switzerland - South Africa - Drakensberg, CC 2.0,

 ドラケンスバーグ山脈は玄武岩で出来ている。すなわちマグマ。アフリカがかつてのゴンドワナ大陸から離れるときの壮大な噴火が、厚さ千メートルにも及ぶ玄武岩層を作り出したのだ。
 レソトが誕生したのは十八世紀のことだった。黒人のソト族がこの地に移住してきて王国の基礎を築き、モショエショエという王が国をまとめた。その後、立地の不自由さからか、どの国にも浸食されることなく今日まで王国が続いている。
 国境を越え、濃い茶色の猛々しい崖が切り立っているドラケンスバーグ山脈のすきまを縫っていくような細い道路・サニパスを行くと、峠に
“ウェルカム トゥ ヘヴン”
とある。その看板の向こうに、乾燥した薄茶色の谷が重なり、連なり、延々と広がっていた。はたして、ここからがレソトなのだ。
 レソトに入ったとたん、道路が無舗装になる。車内はさきほどまでの南アフリカ側の快適な道路との差にたじろぐ。途中、幾度か驢馬車を追い越す。牛や山羊を連れた牧童が車の前を横切る。山の斜面に作られた、段々畑には痩せたトウモロコシがひょろりと生えている。窓を開けると、冷たい風が斬るように吹き込んでくる。ダーバンはまだまだ汗ばむほど暑かったのに、国全体が標高の高いレソトではもう晩秋に差し掛かるところだった。

 国を超えた瞬間にわかる、空気感の違い。この国は、貧しいのだ。
レソトの経済は南アフリカ共和国に頼りきっている。国民のほとんどが自給自足の生活をしているにもかかわらず、見渡せばはるかに灌木と岩の大地が広がるばかりで農耕地が国土の十パーセントに満たない。岩だらけの薄い土壌で少しばかり野菜を育てるほかは羊や山羊、牛を放牧して生計を立てている。消費せねばならない生活必需品は南アフリカの資本から成るスーパーマーケットから買うよりしかたない。
 検索エンジンで興味深いデータがあった。レソトの水事業への投資のプレゼン資料である。国土の多くをドラケンスバーグ山脈が占めているレソトでは川はたくさん流れている。その豊富な水を人口の増え続ける豊かな南アフリカへ流すアフリカ最大の土木事業がある。それに投資しないか、という日本人向けの資料があるのだ。そこには、観光客むきのラグジュアリーなアフリカ風の宿、ウォータースポーツや乗馬トレッキングなど観光資源があり、英語をしゃべる若者がたくさんいるので労働力も困らない、と書いてある。しかし、この寒々しい景色を見ると、手放しでレソトに投資できそうには無いと思えた。


 シャーロットは、「観光地に行けば、昔らしい暮らしを見せるツアーやイベントがあるけれど」と困った顔をした。南アフリカにも、伝統的な暮らしを再現し、現地の雇われ人が歓迎の踊りを披露するような施設、日本でいう映画村のような観光施設があった。シャーロットは観光向きの痛々しいレソトの踊りを観たいわけではない、と言った。ほんとうのレソトが見たいの。レソトの西側のムーロシ山の近くに、電気もなく近くに店もない、現地の生活を楽しむような簡素な宿があるので行ってみようと言った。渡された白黒印刷で簡単に宿の説明が連ねてあるシンプルなガイドブックのなかに、たしかにその名もない宿はあった。シャワーはあります。電気はつきません。ガスはあります。野菜を庭で育てています……とだけ書いてある。

ろうそくのあかり

 無舗装の石だらけの道を、シャーロットの恋人クレマンが丹念に走っていく。車内ではフランス語の曲がかかっている。「これ、フランスで流行っている曲でさ」とクレマンが親切に教えてくれる。「歌詞がおもしろいの。マンションの住人の話をしているんだけど、1階の男、大麻中毒。二階の女、売春婦。三階の若者、セックス中毒。こんなかんじの歌。社会風刺さ」谷をすぎ、峠を越えて、気が付くと1日が終わろうとしていた。夜の七時くらいだっただろうか、地図でみると宿にほど近い場所まで来ていたのでうとうとしているところをクレマンが起こしてくれた。傍らには小さな町と言えるだろうか、山の上の集落にいくつかの店がくっついたようなところがあり、電灯がちらほらとついていた。レソトに入ってからというもの、町らしい町を見ていなかったのでひどくまぶしく感じた。


 クレマンが、車の窓を開けて、町の入り口に立っている男に声をかけた。細かい道を聞きたいらしい。男は中年でレソトの伝統的な遊牧民の恰好をしている。羊の毛を編んだ煮しめたような色の毛布に何重もくるまって、山羊や羊を追う長い杖を携えている。なぜ彼はそこに立っていたのか。町の入り口の番人なのか。なにをするでもなく、ただ夜に溶け込むようにそこにいる。
宿の方向を聞いたのだが、しばらく間があって、ゆったりとした手つきで東の方向を指さした。
「あのひと、ほんとうにこちらの言うことがわかったのかしら?」
シャーロットはいぶかし気だった。案の定、しばらく進んでみたものの宿は東の方向には見当たらず、もう一度町へ聞きに行くことにした。さきほどと全く変わらないようすでさっきの男がそこに立っていたので、わたしたちは少々ぞっとした。地縛霊のように、さきほどと何も変わらない体勢で、目的もなくただ立っているのである。わたしたちは住民は英語がろくに通じないということがわかっただけの成果を携えて、しばらく宿を探して彷徨うことになった。

それから夜がとっぷり暮れてしまうまでには宿に着いていたかったが、どこをどういったか、山をひとつふたつ越えて悪路を下っていったところに、その宿の看板が見えたときには、ひどく安堵した。
暗いのであたりはまったく何も見えず、越えてきたはずの山々も夜に沈んでしまっていた。
まず受付をしないといけない、とうろうろしているととんがり帽子のような屋根をかぶった土で出来た家から若い男が現われた。短くドレッドに編んだ髪に洗いすぎて伸びて色あせてしまったセーターに、ナイロンの上着を着ている。
「いらっしゃい」
男はこの宿の雇われ管理人のようだった。なんとか英語は通じる。
シャーロットとクレマン、そしてわたしでとんがり帽子の家のなかへ入る。ここがレセプションのようだ。8畳ほどの一間だけの家に、ろうそくが1本だけついていた。
「三人で、二泊したいの。いくらかしら」
シャーロットが言うと、
「ひとり1泊、一五〇ランド」
としずかに男が言う。
「嘘よ。ガイドブックには一二〇ランドと書いてあったわ」
フランス人のシャーロットはふだんはふわふわと頼りなさげなのに、交渉事になると別人のようにしゃっきりする。わたしはガイドブックの値段を見ていたけれども、値上げしたのだろう、くらいにしか思わなかった。フランス人は受けるべき権利に対して妥協しない。


 レソト人の男はシャーロットの切りこんできたのにすぐさまひるんだ。
「ガイドブックにオーナーの電話番号があったから、電話して確認してもいいけど。ほんとうに一五〇ランドなの?」
「電話はしないで、一二〇ランドでいいから」
やや慌てて男はすぐに値段を正規に戻した。この管理人の男はひとり1泊あたり三十ランドをちょろまかそうとしていたのだった。しかしこの男は嘘をつくのに慣れていなさそうだった。あまりにも翻るのが早いものだから、シャーロットも拍子抜けしてしまった。
 男はジャスティスと名乗った。(苗字はレソトらしい苗字だったが忘れてしまった)正義という名前を持ちながら、わたしたちを騙そうとしていたのと、それがたちまち失敗してしまったことがなんだか滑稽で、あまり悪い人だとは思えなかった。
 レソトに入ってからひたすらに感じていた貧しさ、というものが、この管理人棟に入ってからろうそくの明かりを見ているうちに、明確な悲哀となってわたしのこころに忍び込んできた。

 アフリカのスイスと呼ばれるレソト。しかし蓋を開けると山がちで農耕地がないのに人口ばかり増えるものだから、人は山羊をたくさん飼うようになる。すると山肌にへばりつくように生えていた草木を山羊たちがぺろりとたいらげてしまう。岩肌が丸見えになり、土壌はどんどん痩せていく。痩せた大地はカラカラに乾いて見え、観光資源としても魅力に乏しく見える。子どもは牧畜に駆り出されるので学校に通えない子も多く、教育を受けない子どもが育った結果、レソトではHIVの罹患率が高く、それにより平均寿命が短い。親を失った家庭では子どもが働かざるを得ず、子どもは学校へ行けない。わかりやすい悪循環である。投資のパンフレットに書いてあったような英語を流暢にしゃべる若者など、レソトにはほとんど存在しない。金融商品というものが、いかにいいかげんで明るい面しか書かれていないか、がわかる資料なのだった。
 レソトは負の螺旋階段の最下層にいるように見えた。自給自足すらもままならないのだから、外貨を稼ぐための商品を作ることもできない。余力がないから、音楽や伝統工芸品もさほど豊かではない。貧しい大地なのだった。

 古びた上着を着たジャスティスは、裸足にスリッパを履いており寒々しい。せめて電灯でもついていたら、と思うが、いや、こういったロッジは必ずオーナーは白人である。発電機くらいオーナーが置けないわけもないだろうと思うのだが。管理人に高級な発電機を任せるのも嫌なのかもしれない。オーナーは南アフリカにいて、頻繁に見にくることもないらしいから、発電機だけ盗まれてトンズラをこかれることも心配なのもかもしれない。ろうそくに剥き出しの土壁が照らされてゆらゆらしていた。
 ジャスティスは自分が案内できるトレッキングツアーのことや、別棟の宿泊する部屋とシャワーの使い方などを教えて、また明日、と言った。電気こそないものの、客人用の棟は石造りのしゃれた部屋で、ヨーロッパ人が設計したに違いなかった。それから明日の朝の景色は楽しみにね、とジャスティスは告げた。


山登りの歌

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 次の日の朝、ガチョウの鳴くガーガーという声で目が覚め、外へ出ると、信じられないようなパノラマが広がっていた。
 宿は山の尾根に位置し、岩がちなドラケンスバーグ山脈が大きく、小さく、高さを自在に変えながら遠くまで脈を打っているのが数千キロ先まで見えるようだった。このような広い景色というのは見たことがなかった。日本の山とは異なり、赤茶けた岩肌がごつごつと露出している。まだ高くは上がってきていない太陽が冷たくやわらかな大気を作り出していた。少し移動して下を見やれば谷は恐るべきほど深いのに、空気が透明で風もなく、何故か怖いと感じない。日本はやはり、狭い。日本の景色の狭さに慣れると、このスケール感に脳が追い付かず、現実のものと思えない。昨日否定したはずの「天国のような国」というのが、眼前に迫ってくるようだった。ここが楽園かどうかはわからないが、とにかく隣の南アフリカ共和国が「下界」に思え、ここは天に近いのだと知った。


 つぶさに景色をみれば、眼下の深い色をした川の近くにはぽつりぽつりと同じようなとんがり帽子の家が見えた。この景色の中に人が、住んでいる。
 立ち尽くしていると、ガチョウが何羽も庭を闊歩しているのに気が付いた。ガチョウは石だらけの土になんとか生えているような草をついばんでいる。ジャスティスの妻らしき女性が、庭の一角に育てている葉物に水をやっている。それが終わるとガチョウの小屋の卵を拾っていた。
 ジャスティスたち家族は管理人として、ここの家と暮らしをあてがわれているのだった。昨晩のどんよりとした情景とはうらはらに、朝はとても気持ちの良いものだった。

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 ジャスティスの妻の後ろを、ちいさな女の子が付いて回っているのが見えた。二歳くらいだろうか、娘のようだ。何人目に回ってきたのだろうと思えるほど着古したパーカーを着て、手には蒸しパンのようなものを持っていた。しばらく見ていると、妻は家のなかへ入っていき、(管理棟のうしろに彼らの家があるようだった)娘は庭に残ってこちらをうかがっていた。手を振ると、にこにこしてこちらへ寄ってきた。くりくりした目をぱちくりさせてわたしの顔を覗き込んでいる。きっと東洋人は珍しいのだ。
 言葉は通じないと思いつつ、熱心に日本語で話しかけ続けていたら、女の子は何かレソトの言葉でしゃべりはじめた。 
「何を食べているの?」
とわたしが聞き、手のひらのなかの蒸しパンを指さすと、娘は握りしめて汗とともに圧迫されたパンを見た。一瞬あって、彼女はわたしにの口にパンを押し込んだ。
 砂糖も入っていない、質素な味のパンだった。おまけに握りしめられて固まっている。わたしが味気のないパン、しかし母が少ない小麦粉(あるいはトウモロコシ粉)で娘にと作ったのであろう貴重なパンを噛みしめていると、彼女はとても嬉しそうに、けたけたと笑った。朝日を浴びた背景の山がばら色に輝いている。ひとにパンを与えるのは、誰にとっても喜びなのだ。たとえ、貧しくても。いや、貧しければそれほどに。

 二歳の子の親であるジャスティスは、わたしたちを登山ツアーに誘った。
 周りを見れば、目の前にいくつもの山がそびえたっている。
「ムーロシ山を登って、それから岩絵を見に行き、最後はこのあたりではいちばん大きな滝を見に行くコースだ。二、三時間のはずさ」
ジャスティスが指さしたのは、宿から見える崖下の谷の向こう側にそびえる岩山だった。壁というほどではないが、簡単に登れるようには思えない。しかしトレッキング経験のあるフランス人二人は乗り気だった。
「いいね。いいんじゃない。楽しそう。岩絵って?」
シャーロットがたずねる。
「サン族が描いたと言われる、かなり昔の壁画だよ。近くにあるのは、おそらく千年ほど前のもの。」


 レソトにはサン族(いわゆるブッシュマン)という狩猟採集民の岩絵が各地に残されており、いつ残されたものかというのはその場所によって全く違う。四千年ほど前のものもあれば、数百年前のものもある。一八世紀にソト族がこの地からサン族を追い出すまで、この大地はサン族の住みかだった。サン族は二千年ほど前まで東アフリカから南アフリカにかけて広く分布していた民族だったが、だんだんと場所を追いやられて、いまではカラハリ砂漠にわずかに暮らしているだけである。
 レソトだけでも何百点、何千点とサン族の岩絵が見つかっているというから、それほどにサン族がたくさん暮らしていたということだ。狩猟採集民にとって岩絵は数少ない娯楽、自己表現の場、求愛の一種、などなど文化の中核だったのだろうと思われる。文字を持たない当時の人々にとって、岩に自分の痕跡が残るということがいかに特別で、誇らしいことだったか。
 現在はソト人が主に暮らしているレソトだが、少し前を振り返れば狩猟採集民が闊歩していた大地だったのだ。

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 わたしたちはジャスティスの誘いに乗り、ツアー催行料金を彼に支払った。彼はオフシーズンに仕事ができてかすかに嬉しそうな表情を見せた。
 ジャスティスは履きつぶしそうな登山靴を履き、ちいさなおんぼろのリュックを背負って出直してきた。そしてこの谷を降りる、と言った。わたしが崖だとおもっていたところは、案外ロープなしで降りられるくらいの斜面だった。しかし、崖だと見紛うくらいにはかなり深い谷であった。
 ジャスティスなりに見極めている登山道があるようだったが、それは彼にしか見えず、わたしたちには道とは言えないほどの獣道を降りていく。山羊も食わないようなするどいいばらが岩に生え乱れていて、慣れていないわたしたちはみな腕を深く切った。
 谷に降り、冷たい川を越えて、そびえる山を登る。また獣道だ。いばらの生えた岩山をただただジグザグに登る。岩を噛むようにとにかく登る。煙草をやるシャーロットはかなりしんどそうにしていた。クレマンも大汗をかいている。


 しかしジャスティスは、岩を履き古した登山靴で繰りながら、歌を歌っているのだった。足取りも一定で軽い。息は荒いのに、鼻歌のような、言葉を発しているような、アフリカの旋律を歌っている。旋律はひとりで歌っているのに、やまびこが呼応するように伸びやかだ。シャーロットもクレマンも、なにしろ坂がしんどいものだから、歌う彼を憎らしそうに仰いだ。
 いちばんしんどい坂を登りきると、もう頂上だった。宿よりも標高が高く、目線を下げると地平までの山々が見えた。長い髪の毛のようにきらきら光る川が眼下に見え、いばらばかり生えている岩々もくすんで遠い。
「ジャスティス、しんどくなかったの?歌を歌って登山なんかして」
とわたしが聞くと、
「しんどくないわけじゃあないけれど…山育ちだからね」
もごもごと答えた。 
 尾根づたいにしばらく歩くと、かなり切り立った部分があった。歩く幅は1メートル程度で、一歩間違えば数百メートルまっさかさまになるような尾根だった。ジャスティスは、一歩一歩軽く、さきほどの道と変わらずにひょうひょうと歩いているように見えた。わたしはおそるおそる踏みしめて歩いた。まもなく安全な場所に着いた。
「怖くないの?やっぱり慣れているから?」
と聞くと、
「僕だって、怖いよ。仕事でなければ、あんまり来たくないな」
とはにかんだ。あまりおしゃべりなほうではない、レソトの夜のようにひんやりと、静かな男だ。
 尾根歩きをしているあいだに、ジャスティスのことを聞いた。数年間南アフリカにいたこと、そこで出稼ぎをしていたこと、南アフリカの暮らしが会わなくて帰ってきたこと。英語が多少なりとも使えるのは、そのためだったのだ。


「ソウェトにいたんだ」
とジャスティスは言った。
 レソト人の多くは南アフリカの生活に憧れ、あるいはレソトでは暮らしていけなくて、南アフリカへ出稼ぎへ行く。しかし、炭鉱のきつい労働だったり、住めるのはヨハネスブルグでいうソウェトのような巨大なスラム街しかなく、心を病んでしまうレソト人も多いという。
「南アフリカでは、ひとも小ずるいし、早口だ。レソトはのんびりでしょう。この管理人の仕事は気に入っているんだ。家はあるし、英語を生かせるしね」
 昨日の夜、彼が三十ランドをちょろまかそうとしたもののシャーロットにすぐに嘘がばれて、すぐに訂正したのを思い出した。レソトにいてはまたとない、安定した仕事のチャンスに違いない。これを三十ランドと引き換えに手放すわけにはいかないだろう。失業率が高いレソトではかなり好待遇に違いないのだ。
 尾根の上で一休みするとシャーロットが、休憩用に持ってきていた青い小ぶりのりんごをみんなに配ってくれた。ジャスティスは、ひさしぶりだ、と言ってりんごを撫でると、嬉しそうに皮ごとかじりついた。

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 その山を下りると丘陵地帯に出た。箱根のススキヶ原のような、遠くまでイネ科の草がさらさらとなびいている、のどかな雰囲気である。少し奥まった岩の陰にジャスティスがわたしたちを連れていく。
 風雨にさらされないような、少しお辞儀をしているような傾斜の岩の平らな面に、赤い染料で描かれた鹿の絵があった。大きさは、手のひらくらいのサイズ。年月が経ち、血のような色をしている。岩も赤茶けているものだから、じっと目を凝らさないと見ることができない。
「これがブッシュマン(サン族)の絵」
サン族の絵も写実的なものから、ごく原始的なものまでいろいろなパターンがあるが、これはかなり原始的なものの部類に思えた。陰影などはなく、のっぺりした色遣いで荒っぽい。


 よく見ると、槍を持った人びとがまわりにたくさん描かれている。おどけて踊っているような足取り。サン族が大きな鹿(エランド)を追いつめて殺すときの絵だ。このような岩絵が何千点もレソトで見つかっているということは、かなりの数の狩猟採集民がこの地にいたということで、それはつまりまさにこの地に、このような大型の動物がわんさかといたということだ。いまのレソトよりも、なんと豊かなことだろうか。
 牧畜民のソト族がこの地にやってきてから、おそらくこういった野生動物は激減しただろう。げんに、わたしたちもレソトに入ってから野生動物といわれるものは1頭も発見していない。この広い風景のなかにも、動物は遠くに点ほどに見える山羊や牛たちだけ。
 ジャスティスは、この岩絵がここにあるということは、この岩陰にサン族が住んでいたということかもしれない、と言った。確かに岩絵のある大きな岩は屋根のように傾斜しており、雨風をしのげそうだった。ジャスティスは、同じ岩の面にいくつかぽつぽつと、サン族の岩絵があるのを見せてくれた。
 千年前のサン族は、エランドのいない現代のレソトを見て、何を思うだろうか。
  
 それからわたしたちは野原を通って、滝を見て、それからUターンしてきた。瀑布とまでは言えないものの、滝は十メートル近くあったし、滝の裏側に入ることができておもしろかった。着替えなどないのに、シャツが濡れた。レソトは高低差がかなりある国土なので滝が多い。トレッキングツアーにはほとんど滝を見る行程が入っている。しかしわたしは山育ちなので、滝は見慣れていた。滝は滑っていく岩の種類が違うくらいで、冷たさもしぶきも様相も、あまり日本の滝と変わらないのだなと思った。滝として流れているのはどの国にあっても同じH2Oなのだから、当たり前である。
 景色はすばらしいけれどなんだか物足りないな、そう感じたのはおそらく「生」の気配がしないからだろうと思った。野生動物や、行きかう人々、うるさい虫さえ、このトレッキングの間に見ていない。滝壺に魚影は無かった。とにかくこの晩秋の景色のなかは、とても静かなのだった。

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 少し高い丘にまで来た時、視界が開けた。
 そのとき、向かいの山から、透き通る空気をふるわせて、ソト族の歌が聴こえてきた。
 視界の少し下にある岩山を見る。羊飼いの少年が、羊を追って山の肌を全速力で駆け下りていくのが見えた。レソトの民謡を歌いながら、岩と岩の間をまさに「飛んでいる」。もしも踏み外したら谷底へまっさかさまになってしまうような急勾配も急勾配、ほとんど崖を、歌いながら駆け下りていく。昔テレビで見た、雪山を雪崩とともに滑降していくエクストリームスキーのように勢い良く。転がり落ちる石のように。肩に下げた羊飼いのベルがからんころん、と鳴る。谷中に少年の大きく息を吸う音と、歌が響き渡り、やまびこは遥かかなたまで届くだろうと思われる。深い谷をどんどん駆け下りる。少年は、わたしたちが聞いているのをわかっているのだろうか?そうではない、ジャスティスも往路でいちばんきつい胸突き八丁の坂を登るとき、歌を歌っていたのだ。あれは、わたしたちを意識した歌声ではなかった。生活するままに出てくる、癖のような、反射のような自然さで歌われた音色だった。


 紛れもない生の躍動に、わたしは震えた。
 高らかなゴスペルでもなく、叫ぶようなけたたましい多重奏の歌でもない。アフリカのどこで聴いた旋律とも違う、寒さのある音だった。冷たい雪を内包した声だった。
 山に響き渡るこの歌は、彼らの労作歌なのだろう。ヨイトマケのときに歌われる土搗歌とおなじに、アフリカでは玄米を搗いたり、石で粉を引くときなど、単調でしんどい作業のときは歌を歌う。しんどい気持ちに意識をやらないように歌を歌うのだ。
ジャスティスの登り道の歌でも、羊飼いの少年の駆け下りる歌も、どうしても生きねばならぬ今日を明日へ明日へ押しやる、祈りの歌なのだ。

 気が付くと、シャーロットもクレマンも、そしてジャスティスも、足取りをゆるめて少年の歌にじっと耳を傾けていた。さっと風が吹き、枯れ草を揺らした。秋の風は冬のはじまりを告げていた。
 わたしたちは大きな滝を見た。祖先たちの岩絵を見た。しかしわたしにはレソト人の貧しさについて、と、それにしては妙に軽やかすぎる歌声のほうが心にこびりついてしまって、どうしようもなかった。


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