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ダイアログ・イン・ザ・ダークこども向けオンライン版に参加した話と、文化資本の話【対話の森こども5000人体験】

先日、息子(小2)とダイアログ・イン・ザ・ダークのオンライン版に参加してきました。

ダイアログ・イン・ザ・ダークはもともと視覚障害のある方が真っ暗闇で食事を提供し、食事を提供される側は真っ暗闇でごはんを食べてみる…という体験をするというものでしたが、現在は体験型ソーシャルエンターテイメントとして生まれ変わり、竹芝にダイアログダイバーシティミュージアムなるものがあるとか….。

今回は探究学舎さんのつながるコースの参加者さん向けということで、対話の森こども5000人体験という子ども向け無料プロジェクトで参加させてもらいました。
https://kodomo5000.dialogue.or.jp/

オンラインなのでzoomでの参加。
アテンドしてくださった視覚障害の方は3名。子どもたちは16名。

どう対話したらいいかわからない

最初は子どもたちもやや困惑気味で、
「このひと全然目がひらいてないよ~」とか「なんかへんだね」と言っていました。
(いつもと違いミュートじゃないから、相手さんに全部聞こえちゃってるよ~~💦と思いましたが、それも素直な感想で、当然だよね。)

3グループに分かれ、60分くらいのなかで感覚マップという、地図に視覚以外の4感(触覚、嗅覚、聴覚、味覚)を足したマップをつくり発表するというワークをやりました。

子どもは最初はアテンドの方が「発表してくれる人~?」と聞いたらそっと手を挙げたり。「目が見えない相手とどうコミュニケーションするか」がまだピンと来ていない。
それじゃあ相手に見えないからハ~イ!って大きい声で言わんとわからんでしょ~と思いつつジッと観察…。
うちの子は女の子に間違われたけど、それを訂正できずもじもじしている。
(名前と声だけだと、そりゃあ間違うよね~と。子どもの声って男女差あんまりないんだなあ、とも思いました。)

しかしだんだんと子どもたちは慣れてきて、すぐにアテンドの方と仲良くなる。「どうやって料理するの~?」など興味深い疑問をどんどんぶつける。

感覚マップをつくる


視覚障害の方は、「(足の底の感覚で)ここはざらざらした道路」とか「ここはこんなにおいだからもうすぐ駅」などいろいろな情報を得て、道を覚えるらしいのですが
それを子供たちも一緒につくるというワークでした。

ある地点から、好きな場所までのマップ。

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こんな感じで感覚マップを作りました。
いつも歩いている道も、目ではない感覚を思い出しながらマップを作るとなんだか新鮮!

息子のグループのアテンドは女性の方。10代までは弱視だったけど、その後全盲になったという。

息子は「うちは崖だらけだから、もし○○(アテンドの方)が来たら、落ちちゃうかもしれないから柵を作らないとね。」と。(どうやら川につれて行きたいらしい)
もうすでに、相手の側に立った考え方をできるようになっている。子どもの柔軟性ってすごい。

そして発表し、感想をシェアして時間は終了。

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終了後、「どうだった?」と聞くと、

「なんかさあ、僕らと、べつに同じなんだね」

と率直な感想を述べた息子。

ほんとだねえ、たまたま視覚にはハンデがあるけど、それ以外はご飯を作ったり、コンビニ行ってからあげクン買ったり、仕事したり、カフェ行ったり、友達としゃべったり、なんか同じだね。

息子はNHKの教育番組が好きなのですが、ハートネットTVとかをみて情報で「こういう人がいて、こういう人には支援が必要なんだ」的な理解でいたらしいけど、「同じなんだ」という考えが生まれたのは、やはり実際に対話をしてみて気づいたこと。
素晴らしい機会だったなあ、こうやっていろんな人とどんどん対話していってほしいな、と見守っていて思いました。

その後、わたしが

「子供たちがどんどん仲良くなるのをみてびっくりしたよ。大人はこうはいかないよ。仲良くなるのに壁があるよ。
わたしは、どんな背景があって全盲になって、どんな大変な道のりを経てきたのか…とかいろいろ考えるとなかなか子供たちみたいに話しかけられないかもなあ」

と言いました。

しかしこれを言いながら、それぞれのバックボーンがあって、それぞれの大変な思いをしてきているのはどの大人だって同じだから、あんま関係ないな、うん…と思いました。


今回は子どもが主役の場だったのでわたしは発言する機会はなかったけれど、もし対話する機会があれば、子供たちのようにフラットな目線で対話してみたいなと思いました。子どもに気付かされることは多いなあ。

同じ、ってことと、個性ってこと。


後で風呂に入っているときに息子が「おかあやんはさあ~」と何かひらめきました。

「おかあやんはさあ、人をさあ、ひとりずつ見る人じゃん。ひとりずつ、深くじっくり見るタイプやん。その人の気もちとか~歴史とか~。
でもちーくんはさあ、全体をまず見るんだよ。深く見るときもあるけど、まずその場の全体を見るんだよ。だから話しかけるのは別にかんたん。

だからじゃない?
それって、人それぞれだからさ。個性じゃん?だから、べつに、いいんじゃない。すぐに話しかけられなくても~」©ちうね(←「僕が言ったことには著作権をつけろ」と言われたので©を付けておきます。)

おお、なるほど。そういう見方もあるね。
知らず知らずのうちに「大人はできない、子どもはできる」という考えを押しつけちゃったけれど、大人でもすぐに仲良くできる人もいるよね。
なんか、多様性の申し子というか、ダイバーシティに生きているなあ、息子よ。
息子がダイバーシティに生きている、あるいはそもそもフラットなものを、わたしたちが見えにくくしているだけなのでしょう。

父ちゃんの体験と家族の文化

お父ちゃん(夫)に報告をすると、こんな話をしてくれました。

「父ちゃんはね~昔ジャズのバンドでキーボードで一緒にやってたやつが、目が見えなかったんだよ。そいつは子どものときは見えてて、途中から全盲になった。だからなのか、音を『色』で表現してた。ここの音、もっとピンクっぽくして!とかね。


お父ちゃんは、そいつが見えるとか見えないとかまじでどうでもよくて、そいつの出す音が良かったから一緒にやってたんだよ。ミュージシャンって、そういうところあるよな。借金抱えてるとか、精神の病があるとか、嫌な奴とか、どうでもよくて、音だけ見てる。そういう世界って、ある意味ではすごく良かったなあ。シビアだけどね。」と体験談を話してくれました。

お父ちゃんはジャズドラマーで活動していたので音楽でつながった人が多いからか、そういう点ではとてもフラットな人の見方をします。
わたしは元々物の見方があんまりフラットではない、ということを重々自覚したうえで、なるべく人をカテゴライズしないように、その人の奥のパーソナリティをなるべく見ようと努力をしてきました(できているかは別として)。

そういった家庭での文化のなかで、息子たちがフラットなものの見方に醸されてきているというのは、興味深いこと。きっとわたしたちが大事にしたいことは、きっと子どもに伝わっていると思います。

フランスの社会学者ピエール・ブルデューが「文化資本」という言葉を残していますが、我が家は子どもにお金の資産はあんまり残せないかもしれないけれど、文化資本はたくさん残してあげようと思います。できることなら他のうちの子にも文化資本を残したいですし。

この文化資本について、こどもの生涯年収とかいう文脈で使われることも多いのですが、そこは重要ではないと思います。
子どもたちが将来偏見がなく、心が豊かに暮らせるかどうか、幸せな気持ちでいられるか、幸せを伝播させていけるか…そういうところに積極的に文化資本を使うと素敵な未来になるんじゃないでしょうか?

わたしの実家は、別に偏見がなかったわけでもないし、勉強の文化があったわけでもないのです。芸術に長けている人がいたでもない。でも、わたしは偏見がないように努めたいし、芸術とか文学は大事にしたい。優しさとか思いやりとか、楽しいことやるとか、環境意識とか、それさえも何がいいか悪いかを自分で判断するとか(判断すらしないとか、わからんけど、)、そういった価値観はこれからわたしたち夫婦が我が家で文化資本を増やしていけばいいことです。


「なんかさあ、別におなじだね。」というのと、「個性じゃん?」という一見真逆にも見える息子の気づきは、実は表裏一体なのだと思います。
そしてその気づきが息子の目の奥できらきらと輝いていたように見えました。


対話の森こども5000人体験
申し込みはこちら
https://kodomo5000.dialogue.or.jp/apply_onsite

企画してくださった探究学舎のKさんに感謝を込めて!

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