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葬式で笑いを取る

終活

大学二回生の私は現在シュウカツ中である。
しかしシュウカツといっても所謂就職活動ではなく、終活と言われるものである。
自分が終末を迎える時の為に活動するものである。


 開始早々にこいつは何を言ってるんだと思うかもしれないがそれが当然の反応であり、私も反論することができない。
それもそのはずであり「終活」というものは遺産相続や遺言、墓選びなど自分の死後を円滑に進める為にする活動であり、おおよその対象者は高齢の方である。


そのような中、若者である私がそれに臨むことに違和感を感じるのは当たり前である。
上で述べた事を自分でも感じながら絶賛終活中の私であるが、別に此に至った特別な理由があるわけではない。
相続問題になるほどの財産を二十歳そこらの若者が蓄えているわけもなく、余命わずかであるという深刻な事情を抱えているわけではない。
では何の為に終活という馬鹿げたことをしているのか問われたらならば私はこう答えるであろう。

葬式プロデュース


「笑い」のためである。 葬式で笑いを取るためである。
人生を賭けたボケをするためであると私はそう答える。

「笑い」の原点は緊張と緩和であると、笑っては行けない場面での「笑い」ほど面白いものはないと、そうどこかの芸人さんが言っていた。
私はこの意見に強く同意する。


まだあまりピンときてない皆さんも学生時代に緊張と緩和の笑いを一度は体験したであろうと思う。別に例など何でも良いのだが私の体験を元に挙げるとすれば、全回集会でシンと静まったとこで誰かが屁をこくとか、自分に説教をしている先生のズラがずれているとか真面目な話をしている先生の体臭がとても臭いなどである。


文字に起こしてみて哀しくなるほどの稚拙で例えだが、それでも当時の私は面白く感じたし皆さんも少しは共感してくれると思う。



こんなに「笑い」について持論を展開しているわけであるが別に私は笑いに精通しているわけではない。むしろ「笑い」から遠い位置にいる人物で在り、造語で表すならばよくスベる。

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先日も海鮮丼を刺身だけ早く食べてしまい、醤油とご飯だけで食べていた友達に対し「びんぼっちゃまくんやん」などという謎の突っ込みをして滑ったばかりである。
文脈のない唐突な告白であるが戒めのためにここに書いておこう。

一世一代の大勝負

とにかく自分の事を面白くないと自覚し割り切って生きてきた私であるのだが、それでも人生に一度は後世に語り継がれる位の大爆笑を掻っさらいたいという気持ちがあった。
そして語り継がれるほどの笑いを起こせる場として究極の緊張と緩和が蔓延する葬式が一番良いことにも気がついた。

こんなことを言っている私であるが家族や他人の葬式でそのような愚行をしてはいけないという道徳心は持っていると自負はしている。


実行するのは自分自身の葬式である。私の葬式に文字通り一世一代の大勝負をしかけるつもりである。

訪れるカオス

先ほど述べたように葬式とは究極の緊張と緩和が起こる場所だと思う。
故人を偲び悲しむべきであるとされる葬式では、涙起こせど笑いは起きない。
というか起こすべきではないのだが、そんな張り詰めた緊張が蔓延する場で文脈のない唐突な緩急が来たらどうであろう。
故人の顔をみて弔うために並んでいて、急に前の人が線香を食べだしたらどうであろか。
木魚をたたきながら念仏を唱えていた坊主が突然木魚ではなくて自分の頭をたたき出したら。


実際カオスなそれに対面したら笑いより先に「なぜ?」や「ありえない」などという困惑や恐怖が先に出るであろう。
笑いはその後である。
段々と自分の頭の中で状況整理をしながらも、それでもなお唐突な行動に対する結論付けが出来なく逆にその異常性を再確認したときに、「緩急」が生まれるのではないかと思う。
すなわちそこ笑いが起こるのではないか。

 再度言うが葬式での緊張と緩和は究極である。
その緊張と緩和の関係性、つまり緊張度がより高いほどボケへの落差が大きくなるので、ボケの精度が低くても通常よりも面白いと感じてしまう空間が出来る。


 ずいぶんとわまりくどい言い方をしたが、結局私はこの葬式の空間を利用をして「笑い」を起こしたいのである。

私がもしこの考えを実行したら「非常識だ」とか「何を考えている」などと、死後になってもモラルを説かされる事になるであろう。とんだ死体蹴りである。
 しかししみったれた葬式になるくらいなら、甘んじて死後批判されよう。


私の葬式は私でプロディースしたい。 
自分の遺影を別人にしたり、棺桶に裸で女体盛りになったまま収まりたい。
乳首にでもタトゥーでも入れておこうか。
葬式に来てくれた友達が笑うまいと我慢をしている姿を見られないのは残念だが、その文彼らには苦しんでもらいたい。

「笑いとは張り詰められていた予期が突如として無に変わることから起こる情緒である。」
と一番最初に笑いを「緊張」と「緩和」に当てはめて説いた、かの有名なカントには反省してもらおう。そんな発言をするから葬式で笑いを取ろうとする馬鹿が生まれると。

さてカントに些か無責任に罪をなすりつけたところで今日も終活をしようか。

私は大器晩成型なのだ。


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