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酵母と時が生み出す重奏 Stadsbrouwerij Kazematten Grotten Sante

ここ数年、アメリカンスタイルのビール、特にIPAが人気です。IPAも美味しいし好きなのですが、昔から愛してやまないのはベルギーのものです。駆け出しの頃の体験が強烈なインパクトを持っていて、おそらく相当思い出補正もかかっているだろう。しかし、改めて飲むとベルギーには凄いものがたくさんあることに気が付きます。

2019年春、Hood To Fujiというポートランドと日本のブルワリーがコラボレーションするイベントが行われました。前年はポートランドで開催され今回は日本の番ということで、代官山にあるSpring Valley Breweryに伺い、関係者向けのセミナーにも出席しました。

その時のことです。GiganticのブルワーがKveik(クヴェイク、ノルウェーの伝統的な農家ビールに使用される酵母)に触れ、その流れで「今後酵母がどんどん改良されて、果物を使わなくても果物の風味を発生させるものが生まれるだろう」と発言しました。確かに近年のアメリカにおける研究は凄まじく、実際にグアヴァやイチゴの香りが出せるホップも生まれています。もちろん使い方によってはそうでもないのですが、成分としてそういう香味を持っているものがあるのです。酵母の研究も盛んで、これから本当に果物を使わずに再現出来るのかもしれません。まぁ、「果物を使わないフルーツエール」というのも変な話なのですが、科学の進歩によってそういうことも可能なのでしょう。無果汁のオレンジジュースみたいなものなのだろうか。それはそれでディストピアに近づいているような気がしないでもないけれど。

それはさておき、酵母というものはビールにおいて極めて重要です。酵母とは5~10ミクロンほどの大きさの菌類で、卵のような形に小さな突起が出ている姿をしています。酵母は糖類を食べ、酸素があるときは呼吸を行って炭酸ガスと水に分解、酸素がないときは発酵を行って炭酸ガスとアルコールに分解します。ビール醸造にはSacchromyces cerevisiae(サッカロマイセス・セレビシエ)、Sacchoromyces carlsbergensis(サッカロマイセス・カールスベルベンシス)が主に用いられますが、これらが発酵によりアルコールを生成しながら様々な代謝物を生み出し、それが味と香りを作り出します。ホップアロマを強調するアメリカンスタイルIPAではあまり酵母のニュアンスを出したくないのでニュートラルなものを使用することが多いですが、欧州では酵母のニュアンスをしっかり出しているものも少なくありません。たとえばベルギーの古いブルワリーは固有の酵母を持っていることがあり、それが独特の香味や味わいを作り出してブランドの個性形成にも寄与しています。

今回ご紹介するStadsbrouwerij Kazematten Grotten Sante(カゼマッタン グロッテンサンテ)はピエール・セリス氏が開発したブラウンエールです。2002年からシントベルナルデュス醸造所にて醸造されていましたが、10年後、新しく建てたカゼマッタン醸造所にてこちらのビールは作られるようになりました。当初セリス氏は洞窟内で常時低温で熟成させることで生まれる質的向上を狙っていたそうで、カゼマッタン醸造所に移ってからは実際に洞窟の中でビールを1~2か月熟成させて作られます。Grot(グロット)とはオランダ語で洞窟を意味する言葉です。セリス氏としては「シャンパーニュ製法」を想起していたようですが、瓶を回したり、一部凍結させて澱を飛ばしたりはしていません。味わいとしてはモルトと果実のニュアンスがバランスよく感じられ、とても滑らかに喉の奥へと入っていきます。 ややねっとりした果実(無花果や洋梨など)も思い起こすかもしれませんが、時間と共に香りと甘みの複雑さが増す大変素晴らしいビールです。まだ試したことのない方は是非一度飲んでみてください。

新しいものもそれはそれで美味しいのですが、実は熟成させると大きく化けるのです。私は大阪府吹田市の大月酒店でこれを入手し、5〜6年寝かせておきました。すると、アロマの中にクローブやシナモンなど黒もしくは茶色い、漢方薬を想起させるようなスパイスのニュアンスがぐぐっと出てきたのです。飲むとブラウンエールらしいモルトのこなれた甘みと焦げによるかすかな苦味、そして滑らかな口当たり。飲み込んだ後にも優しく、しかし確実に続くスパイスの余韻。ビールの品評会では”Spice and Herb”という出品カテゴリーがあったりしますが、副原料一切なしのこれを出品してもそういうものだと誰も信じで疑わないと思いました。アロマからフィニッシュまで首尾一貫してスパイスが中心にいます。酵母と時間がこういう複雑な重奏を奏でているのだと思うと、ホップに頼らなくても面白くて美味しいビールは作れるのだなぁと改めて思います。

酵母の改良によって「果物を使わないフルーツエール」が実現する日も遠くないのでしょうが、既存の酵母によって「スパイスを使わないスパイスエール」がすでに存在していたわけです。ベルギー恐るべし。いや、むしろアメリカのクラフトビール産業が研究を重ね、ベルギーの底力を理解し始めるのかもしれない。事実そういう流れもすでに感じます。私たちは現在主流であるアメリカンクラフトビールを愉しむためにももっとベルギーに目を向けるべきなのだろう。

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